◇・◇ お許しください、大佐殿 ◇・◇

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 41.あなたの夢は、金メダル!?  

 

 ミセス艦長の体調も二日ほどすると、回復。艦長デスクにいつもの姿を見せてくれるようになった。
 なったのだけれど……。
「艦長、こちら、もう少しわかりやすく書いて頂けますかね」
 眼鏡の大佐殿が、あのミセス艦長殿に冷めた眼鏡の眼差しで、さらっと書類を突き返している。
「澤村が日本語で書いて欲しいと言うから書いたのよ。なにか文句ある? 私の日本語のクセを知っているでしょう」
「知っていますとも。女学生のような可愛い丸っこい字で、時々妙な日本語ビジネス文章をお書きになると」
「だから。日本語が見づらいなら、英語でいいでしょ!」
「未だに文章が上達していなくて、これでも元側近としてショックを受けているんですよ! 准将ですよ、いま。准将なんですよ」
 あのミセス艦長が『あー、うるさい』と子供っぽく耳を塞いで、頭を振って栗毛を振り乱す。
 そして心優の隣のデスクに座るようになったシドもげんなりとした顔をあからさまに見せた。
「あー、なんか。奥さんに同情しちゃうな。めっちゃ口うるさい部下が乱入してきたってかんじ?」
 心優も実は心の中で『そうねえ』と言いたくなっていた。
 御園大佐が艦長室の業務を手伝うようになると、始終、この有様。日本人ではないシドが『殿様に口うるさい家老かよ』と喩えた時は吹き出しそうになった心優だったが、まさにそのとおりだった。
 准将の字が丸っこいのは心優も知っている。帰国子女で十歳からアメリカ生活を過ごしてきたからだと思っている。その代わり英語は抜群だった。
 しかし、ご主人である御園大佐は英語もフランス語も抜群で、そのうえ日本語もきちんとしていて、美文字の部類に入る。そんな完璧なトリリンガルの旦那さんがいれば、それは奥様もひとたまりもないだろう。
「まったく。久しぶりにおまえと事務仕事をしてみれば、なんなんだよ。すべてテッドにやらせてきたな。テッドの方が日本語的にも後輩のはずなのに、テッドの方が上達しているってどういうことだ!」
「ん〜、もうー、あったまに来た!」
 うわー、またミセス艦長が爆発した。心優とシドは目を丸くして、艦長席を立ち上がって栗毛をかきむしるミセスに言葉を失う。
「隼人さん、もう帰ってよ!!」
「なんですか。どうやって帰ればいいんですか。泳いで帰ればいいんですか。あ、そうか、イルカさんの背中に乗って帰ればいいんですかね」
 旦那さんが一枚上手なのか、しらっとした眼鏡の顔でまったく動じていない。
「またイルカさん! もう杏奈にいうような喩えは使わないで!」
「そう言われましても、女の子のような可愛い文字を書くし、うちの杏奈とおなじ女の子なんでしょう」
「しつこいわね! 杏奈だってパパが『イルカさん』って言ってももう喜ばないわよ! じゃあ、どんな日本語を書けばいいか、お手本を見せてよ」
「かしこまりました。お見せしましょう」
 奥様が突き返した書類を、旦那さんがにっこり笑顔で受け取る。旦那さんが勝ったようだった。
 御園大佐が臨時デスクにしている応接テーブルに戻って、ソファーに腰をかける。
「すぐにお返ししますから」
 だけれど、そこで終わるミセス准将ではなかった。
 旦那さんが懸命にお手本を書き込んでいるうちに、そうっと艦長席から立ち上がってそうっと艦長室を出て行こうとした。
 心優とシドも気がついて、ハッとして『お供しなくちゃ』と席を立ったが、彼女が『シー』と口元に指を立てて『来ないで』と二人を制した。そして、そのまま静かに出て行ってしまう。
 旦那さんはまったく気がついていない。奥様をさらに制圧してやろうと嬉々としてお手本を書き込んでいる。
 でもシドが言ってしまう。
「御園大佐。奥様、出て行かれましたよ」
 今度はあの御園大佐が『なに!?』とギョッとした顔になった。本当にキョロキョロして奥様を探している。でも既に遅し。艦長デスクはもぬけの殻。
「あのウサギめっ!」
 出た。無意識のウサギ! そういうとそれまで余裕綽々だった旦那様が、今度は大魔神のように立ち上がる。
「このやろう。絶対に逃がさない! いい、俺が艦長を捕まえてくるから、そこで待っていてくれ」
 心優とシドはそろってコクコク頷いて、今度は御園大佐が飛び出していくのを見送った。
 シドがデスクに頬杖をついて大きな溜め息。
「はー、夫妻になると騒がしい人達だな。奥様があんなに乱れちゃうんだから。ほんと、旦那様いないほうがいいんじゃないかなっ」
「そういうこと言わないの。御園大佐がいてくださったから、艦長が元気になったんじゃないの……」
「そうだけれどさー。ここでの奥さんは、アイスドールのミセス准将であってくれないと、俺も調子狂うな。そりゃ、ああいう奥さんも可愛いけどさ」
 ミセス准将をつかまえて、『可愛い』と言えちゃうシドも相当なもんだと心優は呆れてしまう。
 そんなシドと艦長室に二人きり、取り残されてしまった。
 彼も静かになって真面目に事務仕事を始めた。時々警備隊と一緒に警備巡回に参加しているので、指令室の紺色指揮官チームの作業服ではなくて、いつも黒い戦闘服のまま。その姿で静かに事務に勤しんでいる。真面目にやるとシドはなんでもそつなくこなせて、手際もいい。そして日本語の読み書きも上手。これは黒猫の大人達から日本で働くことを想定した上で英才教育をされてきたのではないかと心優は感じている。そのせいなのかな? 若い黒猫二世のシドができて、どうして御園家当主になろうとしているお嬢様ができていないのかと旦那様がムキになっていたのは。
 心優もほっと一息。確かにこのままだと騒々しいだけの艦長室になってしまいそうで、すごく気力を吸い取られそう……。思わぬ状態だった。
 二人だけの艦長デスク室は静かなだけで、ペンを走らせる音、キーボードを打つ音だけが聞こえる。隣のシドが大人しいと逆に不思議に思ってしまう。
 だが、彼がキーボードを打ち続ける心優に話しかけてきた。
「おまえさ、帰ったら城戸サンと結婚するんだよな」
「どうしてそんなこと聞くの。それは陸に帰ってからはっきりさせるから、今は内緒」
「旦那様に言われたんだよ。本気で二人が結婚をすると決めたから、余計なちょっかいをだして引っかき回すな――て釘を刺されたばっかり」
「御園大佐が?」
「隼人サン。俺のこと、ガキの頃から知っているからな。どんな手を使ってでも手に入れてやるっていう俺の貪欲さ」
 御園大佐が釘を刺すほど、本当にそんな性格なんだと、心優は改めてシドの気の強さに驚かされる。
「それでも。ミユにひとつ頼みたいことがあるんだ」
 いつになく彼がしおらしい気がした。普段は自信満々のシドだけれど、本当はその内面に複雑なものを抱えていることを心優は知っているつもりだった。小笠原でのシドは、時々、哀しい遠い目を見せることがある。
「なに。わたしでできること?」
 うん――と頷いたシドは、隣のデスクに座ったまま黒い戦闘服の襟元を開いたかと思うと、胸元から何かを引き上げ取り出した。
 首にかけていたそれを、シドは頭から外し、心優に差し出した。
「これ。預かってくれよ」
 それは、古びたロザリオだった。それだけで、シドが大事にしてきたものだとわかる。
「大事なものじゃないの? 首にかけているんだからそうでしょう。肌身離さず持っているってことでしょう」
「それ。親父のロザリオ」
 さらにびっくりして、心優はますますそのロザリオを遠ざける。シドが父親について触れたのも初めて。
「どうして。お父様がシドにと思って持たせているんでしょう」
「まあな。でも俺は俺のロザリオを持っているんだ。これは親父が子供の頃からつけていたやつ。養子になる前に会って、これをくれたんだ。なんか……。なにかの拍子にそれが『俺ごとなくなる』と申し訳ない気持ちになるんだよな」
「申し訳ない気持ちにならないよう、シドが頑張って持ち続ければいいじゃない」
 シドがまた、普段は見せないような優しい笑みを見せたから、心優は驚いて黙ってしまう。
「俺の母親と同じ事をいうな。なんかさ、そのロザリオだけは紛失したくないんだよ。もし、俺になにかあったら……」
 いつもの彼らしくなくて、心優はヒヤリとしてしまう。父親から贈られたロザリオを預かって欲しいと願うその先に彼が思い描いているものに。
「やめて、シド。やっぱり預かれないよ」
「俺になにかあったら最後は俺と一緒にしてくれ。俺の遺体がなければ、母親に届けて欲しい。それには御園に通じている人間に頼むしかないんだ。ミユはこれからずっと奥さんの側にいるのだろう。適任だ」
「どうして……。お父様はシドを守って欲しいと思って持たせているんでしょう」
「遺体も見つからないような死に方をするかもしれない。その時、俺と一緒に粉々になったら嫌なんだよ。ミユが持っているなら、俺はそこに還る。それだけで還れる気がするんだ。死出の旅の目印は、神父をしている親父のロザリオ。そうあって欲しいんだよ」
 父親が神父? シドが父親のことを明かしていくので、心優はもうなんと応えていいのかわからなくなる。それに神父さんは子供を持つことは御法度だったのでは?
 なにも言えない心優を見て、またシドが微笑む。
「な、俺の素性ってある意味やばいんだよ。シークレットベビーてやつ? だからフランクのおじさんが養子にしてくれたってわけ。そのぶん、表と裏を繋ぐ連絡役として育てられている」
 そういうことだったのかと、心優も納得した。
「親父に初めてあった時は驚いたけどさ。子供の頃は父親が誰か教えてもらえなかったからモヤモヤしていたんだよ。それがやっと晴れて、それで養子になって母親とは違う表の顔で裏と行き来する決意をした。そのロザリオを持たせてくれたこともほんとはマジで嬉しかったんだよ。だからこそ、俺の今の仕事ではなにかあった時、身につけていてはいけない気がした。ドッグタグもあるし、俺のために作ってくれたロザリオもある。それで充分だ。親父の分身は、戦場には連れて行きたくない……」
 シドも苦悩して、自分の居場所を探し続けて、ようやっと自分が立つべき場所を見定めて闘っている。そんな男がここまで願っているのだから……。心優はついに、そのロザリオに触れる。
「わかった。預かるよ、シド」
「ほんとか」
 シドの驚いた顔。
「預かったからって、いつどうなってもいいと思わないことが条件。任務が終わったらロザリオに会いに来るのが条件。遺体がなかったらずっと持っている、還ってくると信じて――。でも、その時にお母様自身が息子の死を認め、哀しみに苦しんでいたら渡す。それでいい?」
「ああ、それでいい。有り難う、ミユ」
 シドの大きな手が心優の手を包みこむようにして、そこにロザリオを握らせてくれる。
 緑の大きな翡翠のような石が埋め込まれているロザリオだった。
「お守りになると思うのに、もったいない気がする……」
 やっぱりまだ残念でならない。お父様自身の気持ちが込められているはず。
 それでもシドはもう一つのロザリオを見せてくれる。
「俺が生まれた時に、親父がこっそり作ってくれたロザリオなんだ。俺はこれが相棒だからいいんだ」
 シドのロザリオには黒い石が埋め込まれていた。ブラックオニキス? ブラックダイヤ? ブラックスピネル? 黒曜石? 良くわからないけれど、艶と輝きがある。
「このクロスが俺のドッグタグだ」
 本当のドッグタグと一緒に、シドはそのロザリオを首にかけていた。今日までは二本も持っていたことになる。
「嫁さんが、わけのわからないロザリオを大事にしていたら城戸サンももやもやするだろうな」
 心優はハッとする。シドの気持ちに感化されちゃって、彼の気持ちがそれで落ち着くならとそれだけの気持ちで受け取ってしまった。そうだ。雅臣がこれを知ったら、なんて言えばいい? シドの父親のロザリオと、言ってはいけない?
 困り果てている心優を見て、もうシドはいつもの意地悪なニヤニヤ顔をしていた。
「俺とミユにも大事な秘密があるってこと。夫になるからって油断するなってもう一度言っておく」
「や、やめてよ。本当の大佐って、……」
 心優はまたそこで口をつぐんでしまう。雅臣も、人が知らない姿を持っている。本当は女の子には自信がなくなっちゃう、動揺しちゃう、三枚目のお猿さんだってこと。それはそれでシドにはまた言えない。
「まあ、あの人もさ。これから御園には必要な人だし、これから俺が護っていくんだろうな。仲良くやっていくから安心しな」
 大佐殿はこれから俺が護っていく――。そんなことにも心優は初めて気がついた。そうか、艦長になるだろう雅臣がこれから権限を使って秘密隊員を配備するなら、このシドになる可能性が高いということだった。
「あの、中尉。これからも、よろしくお願い致します」
 夫をお願いします。既にそんな気持ちだった。
 でもやっぱりシドは上から目線の意地悪な眼差しでニヤニヤしている。
「あのオジサンを護ることと、ミユをいつか奪うってことはまた別問題な」
「もう、だから。わたしはダメだって言っているでしょっ」
「俺、これからますます男盛りだぜー。この身体が欲しいって、熟女になっていくミユも感じちゃう時がくると思うなー」
「その頃には、絶対に! わたしより若くて綺麗な女の子に、シドは夢中になっているはずだから!」
「若いからオイシイってわけでもないだろ。俺の経験上、三十代も四十代も経験済み。だから一回、食わせろっていってんの。不味かったら諦めつくし」
 どんな女性遍歴!? しかも、不味かったら? もう、ほんとにこの生意気な言い方、腹が立つ!
 なのにシドが途端に、小笠原で見せていた遠い目を見せる。
「ミユに出会えて良かった。親父のロザリオを預けられるような人間には、絶対に会えないと思っていたから」
 シドが真面目な話をすると、逆に心優が落ち着かなくなる。自信満々で子供っぽいシドだと頭に血が上ってばかりだけれど、大人しいシドはどこかに消えてしまいそうな目をしていて怖くなる。
「なんだろな。真っ正面からやり合ったからかな。で、おまえがまともに受けてくれたから」
「でもシド。強引だったよ」
「それが俺のやり方だもんな」
 あの強引さ。なんとなく、今になって心優はわかってしまった気がする。やっぱり子供っぽい。遊んで欲しい相手に、有無も言わせず、強引に『遊ぼ』と約束を押しつける。
 でもまともな大人にはうまくかわされてきたのだろう。或いは、倦厭されてしまう。心優は大人のような要領もなかったし、確かに真っ正面から受け止めてしまった。そこからシドとの付き合いが始まったのも確かだった。
「おまえ、度胸つけたらマジでほんまもんの護衛官で、格闘家だったな。初めての任務で、不審者を制圧するってなかなかできないぜ。そこも惚れたな」
 惚れた!? いままでのからかい混じりの誘惑とは、違う響きだったので心優はたじろいだ。
 しかも、今度は女としてではなくて、同じ戦闘をする隊員として?
「あ、ありがとう。フランク中尉にそういっていもらえると、ますます自信になる、かな」
「おまえさ、まだなーんにもわかっていないと思うけどな。今回、艦長を護って、傭兵の男を女ひとりで制圧したって功績、帰還したらものすげえことになるぞ」
「そうなの?」
「もう艦の中でもすげえ噂になっている。園田少尉は凄腕の護衛官、傭兵と同等だって」
「やだ、そんな噂! まだシドや警備隊みたいな機敏さはないよ」
 それでもシドが呆れた顔をした。
「ほんとに小笠原に帰ったら、おまえ、びっくりするから覚悟しておけよ」
「な、なに……。びっくりすることって」
 シドがニヤリと笑う。
「ほんっとに御園の一員になってしまうってこと」
「そうなると、どうなるの!?」
「だから。小笠原に帰ったらわかるって。それから、御園がというより、軍隊も実力主義ってことを痛感するだろうよ」
 そして最後に、シドが水色の目で心優を真っ直ぐに見つめる。真顔で……。その顔は、シドが闘っている時のクールな面差し。
「これから付き合いが長くなるだろうな、俺とおまえ。だから、ロザリオ、頼んだぞ」
「うん。わかったよ、シド」
 翡翠のロザリオを心優は大切に握りしめる。大事な友人? 同僚? 先輩? そんな不思議な関係になったシドから託されたこと。
 この不思議な関係も、これからも続くのだろう。

 一週間後、調査団が無事に現場検証と聴取を終え、迎えの輸送機で帰還した。
 停泊を続けていた艦がやっと動き出す。
 いよいよ艦は東へと向かう。帰還へと――。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 艦が動き出して十日ほど。
 侵犯事故と不審者侵入事件で予定外の停泊をしたため、高知沖にて物資補給をすることになる。
 岩国基地から派遣されてきた補給艦と、太平洋上にて接触――。
 物資補給のため、二晩ほど停泊することになっている。

「今回の物資補給の艦で陸に帰ろうと思う」
 御園大佐が唐突に言い出した。
 艦長室で、本日の業務もそろそろ終了、もうすぐ夕食という時だった。
 しかし奥様の御園艦長は驚きもしなかった。
「補給艦の作業完了後の出航は、明後日の午後の予定よ。もう聴取は終わった、まとまったということでよろしいの」
「はい、艦長。おかげさまで、海東司令が本当に知りたいところは別件としてまとめることができそうです」
「そうですか。御園大佐。ご苦労様でした」
「艦長もご協力、有り難うございました」
「わかりました。補給艦の艦長からも、海東司令から御園大佐と帰るタイミングが合えば乗船させて欲しいとの指示を受けているという報告もありましたので、あちらの艦長にもその旨、伝えておきます」
「お願いいたします。御園艦長」
 特にいつ帰るとは、海東司令からは指示を受けていなかった御園大佐。おそらく、違うアプローチからの聴取を託されたのも本当の指令だったのだろうが、海東司令からの密命は『艦長のメンタルバランスを保つようにすること』。海東司令は『艦長の精神が律するまで帰ってくるな』と御園大佐に言い渡していたのだろう。
 その上で御園大佐が『帰る』と言いだしたのは、『妻はもう大丈夫』と判断したからだと心優は思った。
 最初はミセス艦長もペースを乱されていたようだったが、徐々に夫妻であっても『上官と部下』としての連携が取れるようになり、そうなると、今度は御園夫妻ではなくて『御園准将と澤村大佐』に見えてくるから不思議だった。
 そして御園大佐は相変わらず、素知らぬ顔で艦長のベッドルームで寝起きをしていた。それでも『夫妻』という姿もしっくりしているのか大抵のクルーはなにも気にしていないようだった。
 この日の夕食は、御園夫妻でとってもらうよう心優は気遣った。お二人も、また暫く離れてしまうことになるので、なにか思うところあるのか二人きりになることも厭わない様子だった。
 そうして心優はまたひとり、カフェテリアへと食事へ向かおうとする。
 管制室のドアが開いていたので覗いてみると、指揮カウンターには橘大佐がいた。
 しかもドアから覗いている心優と目が合ってしまう。
「おー、心優ちゃん。もしかして、雅臣を探しているのか?」
 図星だったのでびっくりして、心優の頬が一気に熱くなる。嘘、なんでわたしが人を気にするなら『雅臣だ』てばれちゃってるの? まさか、御園のご夫妻はもうみんなに結婚のこと言いふらしちゃってる?? そんな方ではないと思いたい。
 でもニヤリとした笑みを浮かべている橘大佐と共に、舵を握っているラミレス航海士長も、官制員達もクスクスと笑っているではないか。
「ち、違います」
 心優が雅臣を気にしている態度は、そんなに人目につくものだったのだろうか? 確かに雅臣をみつめていることもあった。雅臣にはつい嬉しくなって微笑んでいたかもしれない。
「雅臣なら、シドに呼ばれて、いま甲板にいるよ」
 橘大佐が教えてくれたことに、心優は違う胸騒ぎを覚えた。
「どうして、フランク中尉が城戸大佐を?」
 心優はついに管制室のドアを開けて、中に入ってしまう。やはり橘大佐が面白がっている顔でニヤニヤしている。
「そりゃ、どっちが『俺のミユ』であるか決着つけてんじゃないの」
 は? 心優は目を丸くする。
「ど、どういうことですか?」
 なのにますます官制員達がおかしそうにして笑い声を抑えている。
「俺達、わかっちゃってんのね。雅臣なんて心優ちゃんを気にして目で追ってばかりで『そばに行きたいなー、大丈夫かなー、他の男と仲良く話すのやめてほしいなー』って顔ばっかりしていたもんな。俺達にはだいぶ前からばれちゃってんの」
 えーー! 心優はさらに驚きおのおいた。官制員達もついにアハハと笑い出す始末。
 次にはラミレス航海士長も、心優に向かって叫んだ。
「それで、一番わかりやすいのがシドだよな。俺は狙った女は絶対手に入れるってぎらぎらした目で、ミユを見ていたもんなー」
 そうそう、どっちもダダ漏れ――と官制員達が揃ってはやし立てる。
 管制長も心優に面白そうに伝えてくれる。
「で、管制室一同で賭けをしているんだ。園田少尉がどちらの男を選ぶか。私は、キャプテン城戸に賭けている」
「自分はフランク中尉。年齢的に釣り合っているし、二人が気のおけない言い合いをしているのを見ているので」
 官制員達も城戸大佐に賭けたシドに賭けたと騒ぎ始めた。
 そして橘大佐も。
「俺は雅臣。元上司だもんなー。もしかして、その時からなんかあった? もう心優ちゃん決めちゃってんの? だったら教えてよ」
「お二人どちらとも、特には、なにも、ありませんよ」
 どうあってもここは回避しておこうと必死に返した。
「誤魔化してもダメだよ〜。でも、まあいいよ。任務中だから決して本心は明かさないという心優ちゃんのその姿勢はいいとしよう。でも、男二人はもう溢れ出ちゃっているからなあ。あっちの二人はもう確定しているから、あとは心優ちゃん次第ってこと。じゃあ、こうしよう。艦を下りる時に心優ちゃんから発表ってことで!」
 橘大佐が先頭に立って遊んでいるようで、官制員達も『そうだな。一ヶ月後、どっちかが逆転しているかもしれないし』と沸き立った。
「もう、おやめください!」
 心優はそう言って、その場から逃げてしてしまう。そして、雅臣とシドが向かったという甲板へ!
 男二人の心優への気持ちがダダ漏れって……。そんなにわかってしまうものなの? 雅臣とはあまり親しく話さないようにしてきたはずなのに。
 でも……と、心優も思い出す。横須賀の長沼准将秘書室でも、結局は大ボスの長沼准将にも秘書室の親父さんにお兄さん達にも、雅臣の思いは見透かされていた。
 そうなんだ。お猿さんって恋をすると、見破られちゃうんだ! 仕事はエリートなのに、そこはバレちゃうんだとやっと悟った。
 しかも相手が、超絶ストレートなシドと来た。その二人が仕事では大佐と中尉として凛々しく職務をこなしていても、恋になると互いを意識している。
 そうして、男としてついにシドが突撃してしまった?
 ブリッジの階段を下りて、心優は甲板へと出るドアへと急ぐ。
 甲板から、夕に滲むやわらかな陽差し。そこに男二人が向きあっている影が見える。
「……わかった。心得ておく」
「それだけ、許してください」
 雅臣とシドの会話が聞こえてきた。
「それでは、お呼び立てしてしまい申し訳ありませんでした」
 礼儀正しいシドの声。
「わざわざ断りをいれてくれて、こちらこそ気遣いありがとう」
 雅臣は少し申し訳なさそうな話し方をしている。そんな雅臣の返答に、シドが笑う声も聞こえてきた。
「城戸サン。恋に不器用そうですよね。横須賀秘書室でもそのせいで、ミユを突き放してしまったのではないですか」
 いつになく大人っぽいシドの言い方。雅臣は黙っていて、反応がない。
「マジでつかまえておいてくれないと、俺、相当我慢しているから、ちょっとの隙でも奪ってしまいますよ」
「わかってる。もう彼女と離れようとは思わない」
「そうしてください。では……」
 シドがブリッジに戻るドア口から中に入ってきた。そこに心優がいたので、さすがに彼が驚いた顔をした。
 なのに、心優にはなにも話しかけずぶすっとした顔で階段を上がっていってしまった。
 聞かれた――と思ったのかもしれない。
 ドアの向こう、甲板にはまだ雅臣の影だけが残っている。一人きりになって『はあ』と彼が大きな溜め息をついていた。
 何を話していたのだろう。心優のことを話していたのは確かだったが、シドは雅臣になにを言ったのだろう?
 今度は、心優から甲板に一歩踏み出す。雅臣も、心優が現れてとても驚いた顔になった。
「心優……、いつからそこに」
「少し前から。管制室を覗いたら、シドが臣さんを呼び出して連れ出したと、橘大佐が教えてくれたから」
「なんで。俺がフランク中尉と話すと何か困ることでもあるのか」
 雅臣の笑顔が少し引きつっている。その通りなので、心優の胸がずきりと痛んだ。雅臣にも言えない秘密。シドとは友人として交わした約束がある。彼のために、喩え雅臣でも言ってはいけない秘密が。それを心優は持ってしまった。
 なのに、そこで雅臣はもう優しく微笑んでくれていた。
「彼が言ったとおりだな。俺のせいで苦しむだろうから、俺から城戸大佐にも知っておいて欲しいことがある――と呼ばれて、『ロザリオ』のことを聞いたところだよ」
 驚いて、心優は雅臣を見上げた。
「それだけ許して欲しいと言われた。城戸サンの妻になる女に、それだけ頼んだことは許して欲しいってね……」
「シドが、そんなこと……」
 俺と心優も秘密を持っちゃって、城戸サンもやもやするだろうな――と楽しんでいたのに。なのに、シドは自分から、心優が苦しまないように雅臣にも秘密を預けた。
「彼、本気で心優のこと好きなんだな。ほんとうに一歩間違えたら、彼に心優をとられていただろうとヒヤリとした」
「ほんとは、辛かったよ。臣さんに嫌われたとも思っていたし、ここで彼に全てを委ねたら楽になれるだろうって思ったこともあるよ。でも……。それよりも、二度と臣さんに顔向けできなくなって、二度と会えなくなることのほうが嫌だった。だから、臣さんとケジメをつけてから新しい恋をしようと思っていたの」
 夕の陽差しが消えていく甲板。紫色の空に星がひとつふたつ……。そして見上げているのは、シャーマナイトの艶やかな彼の目。
「でも、やっぱり臣さんがずっと一番だった。会いたかった、戻りたかった」
 だから、もう誰も貴方には敵わないのよ。シドと出会う前も出会った時も今も……。わたしには、臣さんだけ。
「わかってるよ、心優」
 そんなことを聞かなくても、もうわかっている。心優はいつも俺だけを見ていてくれた。
 雅臣もそう言ってくれる。日暮れていく海。夜の潮風。その中、雅臣がジャケットのポケットから何かを取りだした。
「これ……。今日の物資補給で届いた」
 リボンがかけられている細長い箱。一目で見ても、女性へのプレゼントだった。
 女性へのプレゼントなんて苦手と言っていたお猿さんが、心優になにかを考えてくれていた。しかもこの航海中に手渡せるように手配してくれていた?
「俺が心優と付き合っていた時に、みつけていたものなんだ。でも買うのも照れくさくて、気に入ってもらえるかどうか自信がなくて……。迷っている内にあんなことになった」
「それを、いま?」
 別れてしまってから、もうすぐ一年が経ってしまう。そんな前のもの、いま買えたのだろうか?
「その時に見つけたものは、もう売れてしまっていたようだ。でもおなじものを探して、塚田に頼んで送ってもらった」
「塚田さんに手伝ってもらったんですか?」
 また雅臣がハッとした。
 自分で買わなかったのか、他の男が買ってきたものをわたしに渡すのか――と、また女の子が嫌がることをしてしまっと思ったようで、急に焦った顔に。
「ち、違う! 心優を取り戻したら、いてもたってもいられなくなったんだ。航海中に渡せるならそうしたいから、陸にいる塚田にそうなるように手伝ってもらっただけなんだよ」
 すると、雅臣はせっかく綺麗にラッピングされていた箱の包装紙をビリビリ破いてリボンも解いてしまう。もう心優はそれだけで呆気にとられる。
「見てくれ、これ。絶対に心優に似合うと思っていたんだ」
「あの、お、臣さん。こ、こういうときは、女性に渡して、女性が開けるものだと思うんだけれど?」
「え? あ、うわっ。俺、またやってしまったのか!」
 ほどけたリボンをまた結び直そうとしている。ほんとうに、もう……。どうしてここぞという時に、三枚目のお猿になっちゃうんだろう。でも、心優はもう笑っていた。女の子が自分を綺麗に見せたくて選んだランジェリー姿よりも、彼はその下にある『本物の肌』がいちばん欲しいもの。そういう人――。
「包装紙もリボンもいりません。見せて頂けますか」
 そういうと雅臣がやっと落ち着いて、でもバツが悪そうにして箱を開けてくれる。
 そこには夕の最後の明るさの中でもきらりと妖艶に光る石がある。ペンダントになっている石。いまの空の色にそっくり。夕の茜と狭間の紫、そして夜空の紺碧。なのにその真ん中が目のように光っている。
「シャーマナイトのような目が、時々猫みたいな目をする。俺は心優がそんな目になった時、すごくドッキリするんだ。そんな心優の目とそっくりだと思ったのがこれ。ブラックオパールキャッツアイ」
 その目になる時、心優はすごく色っぽい――と、雅臣が恥ずかしそうに付け加えてくれる。
「指輪にしても滅多につけないだろうと思って、これにした。その……、初めての航海を一緒にした思い出にと、思って……。俺の彼女になってくれた記念にと思って……」
 また照れくさそうにしてお猿さんが困っている。
「オホーツクで心優をすぐに取り戻した後に、もう結婚を申し込むと決めたから、あの石が絶対に欲しいと思って、塚田に頼んだんだ。塚田があちこちでこの石を見つけて画像を何度も送ってくれたんだ。その中から選んで買ってもらってペンダントにしてもらった。こんな高価なものを物資補給の個人郵送で送るなんて紛失したらどうするんだ、陸に帰ってから渡した方がいいと何度も塚田にメールで叱られたよ。でも、届かないなら届かないで、それも運かなと思った。それよりも、俺は絶対にこの航海の間に、心優に渡したいと思っていたんだ。絶対に届くと信じている。それで、今回の便で届いた」
 猫の目のように光るブラックオパール。それをやっと雅臣が心優へと差し出した。もうあの時から、雅臣の気持ちは決まっていた。ううん、もっとずっと前から、彼は心優を大事にしてくれていた。
「……わたし、そんなに、城戸室長に想われているだなんて……知らなかったし……。そう思っていなかったから、だから自信がなくて……」
 いつまでもパイロットであった世界に思慕を抱いている彼の思いに嫉妬していた。それが辛くて小笠原へ行く道を選んでしまった。
「どうしたら通じたんだろう、心優に。いつもそう思っていた。でも、俺もこのとおり、女の子を喜ばせること苦手だし……」
「わたしは自信がなくて、あなたを信じられなかった。ほんとうに、ほんとうに、ごめんなさい」
 また心優は、彼に言う。
「許してくれますか、大佐」
「俺こそ。許してくれる? 愛しのボサ子さん」
 こんな時にボサ子と言われたけれど、心優はボサ子といわれて初めて嬉しくなってしまった。ボサ子だとしても愛している。どんな心優も好きだったよと言ってくれているのだから。
 差し出されているブラックオパールのペンダントを心優は箱からとりだして、すぐに首につける。

 バーカ、そう言う時は男から女の子の首につけてやるんだよ!

 頭上からそんな声が聞こえて、二人でハッと見上げた。茜と紫が混じる夕闇が見える空とブリッジ管制室の窓。そこに沢山の男達の顔が貼りついていた。
 二人揃ってギョッとした。ひとつの窓が開いていて、そこから橘大佐が身を乗り出していた。
「雅臣。おまえ、これから女の子の扱い方も教育しないとダメかね。だっせーな」
「わっ。なんで、なんですか。これ!」
 城戸大佐、おめでとー! うわー、俺、負けた! 俺は城戸大佐で正解だった! 管制室の窓からそんな様々な声がわいわいと響いてきた。
 その官制員達のざわめきの端に、シドが見えた。口元を曲げて不機嫌そうな顔をしている。でも、心優と目が合うとふっと笑って窓辺から消えてしまった。
 シドが『いま真下で、城戸大佐が頑張っている』と悪戯っぽく官制員達を煽った姿が目に浮かんでしまった。
「園田少尉が、雅臣を選ぶかどうか、賭けていたんだよ。おまえ、心優ちゃんが大好きって顔、管制室ではバレちゃってんだからな」
「はあ? 俺のこと賭けていたんですか。酷いな!」
 雅臣がブリッジの窓へと叫んだが、アメリカンなノリである御園艦長配下の官制クルー達はヒュウヒュウとからかうばかりだった。
「ご、ごめんな。心優。この前のプロポーズも、今日のプレゼントも、俺、ぜんぜん決められなくて!!」
 うわー、最悪だ。俺、最悪なシチュエーションにしてしまったと、大佐殿が顔を覆ってがっくり項垂れている。
「塚田がいうとおり、陸で静かに二人きりになるべきだった! やっぱ、俺はだめなんだ〜」
 でも心優は微笑む。
「いいえ、大佐。大佐らしくて、そして、わたしは艦の男達のこんなところが大好きです」
 だから。とっても嬉しい!
 心優から大佐殿にドンとぶつかるように抱きついた。
 またブリッジの男達がはやし立てる。今度は甲板にいる甲板要員の隊員達からも賑やかな声が聞こえてくる。
 でも雅臣ももう周りの騒々しさもなんのその、抱きついてきた心優をぎゅっと抱きしめてくれる。彼の顔と心優の顔が自然に近づく。
「心優、他の男はだめだからな」
「大佐こそ。他の女の子にデレデレしちゃだめ。許さないから」
 お互いの熱い吐息もすぐそこ。その吐息を感じあったのを合図にして、二人は夕闇の中、くちびるを重ねる。
 海の男達がはやし立てるのも構わずに、思うままのくちづけを繰り返した。
 いいかげんにしろ! 俺達はまだ禁欲中! ブリッジからどうしてかブーツが何足も飛んできて、雅臣の頭やら背中にゴツゴツと命中した。
 それでも雅臣はニヤリと笑って、心優を胸の中にぎゅっと抱きしめた姿をブリッジへと見せつけていた。
 心優を見下ろしている雅臣がふっと笑った。
「なに、臣さん……」
「俺達の子供、ぜったいに金メダルが獲れそうだって、最近はそう思っている」
 もうそんなことまで夢に描いているのかと、心優は驚いてしまった。
「だってそうだろ。エースパイロットだった親父と、傭兵を一発で制圧してしまう空手家の母親から生まれてくるんだぞ」
「気が早いよ……」
「パイロットと護衛官とメダリスト。三人は欲しいな」
 ふたたび雅臣にくちびるをふさがれてしまう。
 また空から祝福のブーツが飛んできた。

 

 

 

 

Update/2015.9.10
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