◇・◇ お許しください、大佐殿 ◇・◇

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 EX2. ドーリーちゃん、よろしくね(11)

 

 息子に先立たれた母親の視線が心優に注がれる。
「そう、だから来てくれたの。マサ君。かわいいお嫁さんを見せにきたってこと?」
 結婚の報告に来たのか。伊東夫人の声にやんわりとした棘を感じてしまう。
 心優はドキドキしていたが、そこは雅臣の方が毅然としていた。
「いいえ。去年、ようやっと空部隊の現場に戻ることができました。空母任務も済ませ、」
 そこで雅臣がやや口をつぐむ仕草、でも、一瞬、すぐに続ける。
「空母任務を済ませ、『雷神』の指揮官に就任しました。いま、後輩達を指導しています」
 雷神に戻った。だから来た。雅臣はそこを強調した。
「あの雷神に――ですって?」
「はい。五月に帰還してからすぐです」
 伊東夫人も驚きで固まっている。
 きっとここでは『雷神』という言葉は、あの事故のキッカケを作った原因だと思われているはず。だから雅臣が言い淀んだんだと心優は思う。
「俺を抜擢してくれた雷神隊長の下に戻れたんです。コックピットの復帰ではないけれど、いま、後輩の指揮をして同じように飛んでいると感じられる毎日を送っています」
「でも、コックピットはもう……」
「それも、一度だけ。そこの基地で最後の適性テストをしてエルミネートになりましたが。自分の上官達が、最後に一度だけ、川崎T-4の練習機で飛ばせてくれました。俺、コックピット業務は戻れなかったけれど、コックピットには一度だけ戻れてやっと引退できたんです」
「うそ、マサ君……。また飛べたってこと!?」
 微笑を浮かべた雅臣が、こっくり頷く。
「六月ぐらいに、そこの浜松基地にいたんです。この上空も慣らしで飛んでいました」
「じゃ、あ……、マサ君……、コックピットと、現役と、ちゃんと、お別れできたの」
「はい。戦闘機の操縦資格は返還しました。でも軽飛行機の免許の取得もできたので、まだまだ飛べますよ」
 やっと雅臣が自信を取り戻した笑顔を明るく見せた。
 そう、コックピットを取り戻したから、きちんと別れを告げられることができたから、思い残しはもうないから、だから気に病まないで欲しい。
 ゴリ母さんは心配していたけれど、心優も気構えていたけれど。必要なかった。雅臣からちゃんと残された伊東夫人の足枷を外そうとしてくれている。
「彼女も、一緒に搭乗して空を飛んでくれたんです。なにせ、うじうじしていた俺を本気に空に戻そうとしてくれたのも、彼女がいてくれたからなんです」
 雅臣の報告がまだ信じられないと震えていた奥様の目線が、再び心優へ――。
「だから、連れてきてくれたの」
「そうです。健一郎を紹介したいし、健一郎には絶対に彼女を紹介したかったから」
 そのまま、伊東夫人が黙り込んでしまう。
「そうでしたか。いらっしゃいませ。どうぞ、健一郎に会っていってくださいませ」
 お母様が丁寧にお辞儀をして迎え入れてくれた。
「これ、健一郎に――」
 雅臣の手の花束。それが差し出される。
「ありがとう。マサ君……」
 やっと穏やかな微笑みで、お母様が大きな花束を受け取ってくれた。
 まだ、ざわざわしている風――。ずっとざわついていて、まるでこちらを見てるような気がする心優だった。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 上がらせてもらうと、すぐに仏間に案内してくれる。
  畳の和室の部屋。黒い大きなお仏壇。そこで心優は初めてその男性の顔を知る。
 しかも位牌のまわりには、いくつかの写真が並べられている。それを見ても心優は驚かされ、そして、雅臣も目を瞠っていた。
「おばさん、これ、こんなに」
「大好きだったからね、あの子。雅臣君と、戦闘機がね」
 雅臣よりずっと小柄、でも日本男性標準体型である好青年が、パイロットスーツ姿の雅臣と並んでいる写真。
 どの写真も、雅臣と写っているものばかり。そして雅臣の姿は、海軍制服姿か浅葱色のパイロットスーツ姿。横須賀基地でマリンスワロー飛行部隊に所属していた頃のものだった。
 さらに展示飛行らしき会場の上空を飛ぶ、ホーネット。尾翼には『燕と朝日のペイント』。マリンスワロー機。コックピットにはきっと雅臣がいるのだろう。
 仏壇の前に伊東夫人が座り、息子と雅臣が写っている滑走路の写真を手に取った。
「あの子、雅臣君のおっかけだったものね」
「そうでした。俺の展示飛行の開催日には、でっかい望遠のカメラを持って必ず来てくれて」
 この家がどうなっているか恐ろしかった。でも、その仏壇はとても穏やかに心優には見える。そう見えたいという心優の切望がそう見せているとは思いたくない。
 だって。憎んだり羨んだり妬んだりしていたら、こんなに雅臣の写真を飾っていないと思う。息子の周りに、大好きだったものに囲まれるように弔ってくれていたのだから。
「健一郎、マサ君が来てくれたわよ」
 お母様が蝋燭に火をつけた。優しく儚い小さな炎が揺れる。
 雅臣も静かに仏壇の前に用意されていた座布団に正座をした。心優もその後ろにそっと控えて正座をする。
 お母様が線香の準備をしてくれ、雅臣が受け取り、火がついている蝋燭へ。厳かな香りの煙がたつ。線香をあげた雅臣が手を合わせた。
 合わせたその瞬間だった。雅臣の肩が震えていた。そして、微かな嗚咽が……。臣さん大丈夫とも聞けずにそっと覗き込むと、うつむいている彼の目元からぼたぼたと大きな涙が落ちていき、頬も濡れに濡らしている。
 男の嗚咽が僅かに、でもずっと響いている。
 ずっとずっと溜めていたものが、堰を切って流れ出して止まらないよう。もう心優もなにも言葉をかけられない。できれば、ここから離れたい。逃げたいんじゃない、見ていられないのではない。雅臣を一人きりに、ううん、二人きりにしてあげたい気持ち。
「園田さん、あちらにお茶を準備しますから……」
 白髪交じりの髪をひっつめているお母様が、そっと囁く。助け船だと思った。息子と雅臣を二人にきりにしてあげましょうという気持ちはお母様も一緒だったよう。
 仏間に雅臣を置いて、そっとその部屋をでる。
「冷たい飲み物を準備いたしますね。こちらでお待ちになっていて」
 広いリビングのソファーへと案内され、心優も静かにそこに落ち着いた。
 重苦しい空気。でも、なにか空気が流れて回っていると感じている。
 しばらくすると、伊東夫人が冷たい麦茶を持ってきてくれ、彼女が心優の正面に座った。
「いつ結婚式を挙げるの」
「来年です」
「あら、ずいぶん先なのね」
「また一緒に海に出るんです」
「あなたも?」
 付き添ってきた女の子も雅臣と一緒に航海に行くようには見えなかったようだった。
「わたしの上官は、雅臣さんを雷神に抜擢した隊長で、空部大隊長です。その隊長の秘書官をしております。艦長を務める上官なので、その方が着任すると、わたしも付き添うことになりますから、いまは一緒に海に出るようになっています。そうなると、式を準備する時間がなのです」
「まあ、そうだったの」
 これお口に合えば――と、急な訪問だっただろうに。盆が目の前のせいか、仏壇に供えてあったお菓子とおなじものを差し出してくれた。
 でも。美味しそうに食べられる自信がなくてそのまま見つめて黙っていると、伊東の母が溜め息をこぼした。
「いまだにね、信じられないの」
 息子が死んだことが、と言いたいのだろうと心優は思ったが、その心境はやや異なるものだったと知ることに。
「ただの事故、運転を誤っただけ。いまでも……、そう信じたい……」
 今度はお母様が途端に嗚咽を漏らし、目元を覆ってしまい心優は戸惑った。
「どうして事故になったのか、雅臣君が最後の、息子の言葉を教えてくれた時……。そんなことをする子じゃない、ブレーキとアクセルを踏み間違えただけだって、自分から死のうとするはずないといまでも思っている!」
 一気に、心優の全身が硬直した。
 そうか。雅臣の証言を受け入れてしまうと、このお母様の息子は自ら死を望み、なおかつ友人を殺そうとしたことになってしまうんだと気が付いた。
 それならば。不慮の事故で不運で息子は逝ってしまったんだ、息子に罪はない、息子は潔白だと思う、信じる、母心なのだろう……。
 だったら。雅臣の証言をずっとつっぱねてきたということになる。ということは……。
 アサ子母の言葉が蘇る。『なにを言っても受け入れてもらえないよ。聞き流しておいで。特に心優さんはその事故当時を話でしか聞いたことがないのだから……』。余計なことは言わず、聞くだけに留めておきなさいと言われている。
 既に、アサ子母もなにを言っても話が通じなくなったと、哀しそうに悔しそうにしていたから、このことかと心優は悟った。
 そして心優もなにを返していいかわからない……。息子は自殺なんかじゃない、雅臣君を道連れに死なせようとしたわけじゃない。一命を取り留めた雅臣君の栄光の道を断ったわけじゃない。そう信じているのだから。
「いただきます」
 こんな時に、出されたお菓子が間を持ってくれるだなんて……。心優は出された和菓子を手に取った。
「どこで出会ったの。雅臣君と、小笠原で?」
 あちらも、お相手が困る話題をうっかり喋ってしまったと思ったのか、当たり障りのない話題に切り替えてきた。
「わたしもそこの浜松基地で事務官をしていました。雅臣さんが室長をしていた秘書室に採用されて、横須賀基地の配属に。その時は彼の部下でした」
「小笠原にはどうして? 雅臣君もいつのまに小笠原に」
「わたしが先に小笠原に転属しました。いまの大隊長は女性です。その女性の隊長を護衛するために同性である女性の護衛官として望まれました」
「護衛官……? あの、上官の方を危険な時にお守りする隊員さんということ?」
 はい――と心優も頷く。
「わたし、元は空手の選手だったんです。怪我をしてアスリートとしての前進を望めなくなったので、父が勤めている軍隊へ入隊し社会で働くことにしたのです」
「まあ。あなたのようなすらりとした女の子が、空手? 護衛官?」
「でも、腕のここらへんなんか、筋肉ばっていて硬いんですよ」
 と、心優は力こぶをつくるようにして腕を曲げた。
「ほんとだわ、すごい。では、これまでの技術を護衛のためにと転向されたのね」
「雅臣さんの秘書室がわたしを採用してくださらなかったら、わたし自身、怪我をしたことで断たれた道にばかり固執して、前に進めなかったと思っています」
 伊東夫人がそこで黙った。心優を見つめて、いまにも泣きそうな目をしている。
「……もしかして。貴女なの? マサ君を海に戻してくれたのは……」
 心優は首を振る。
「いいえ、きっとそうなんだわ。でなければ……。結婚を決めたいまになって会いに来るなんてしないはずだもの」
「雅臣さんが心から望んでいたからそうなっただけです。わかっていたんです。わたしのように雅臣さんも固執している。この大佐殿は空から離れないし、空を望んでいて、なおかつ『空に望まれている』、だから帰れるのに、帰れなくなっているだけ……だと」
 『空に望まれる?』、伊東母がその言葉に囚われ一瞬、ほうけた。
「空に望まれる男は一握りです。コックピットのシートに望まれるパイロットになれるのも、その後、パイロット達を支えられる目に思考に判断力を持てるとなるとさらに絞られます。雅臣さんはまさにそこに望まれた大佐殿だと思っています。空が呼んだんだとも時々思うほどです。彼が後輩パイロットの力を引き出す姿を見せるようになった最近、特にそう感じるようになりました」
「空に望まれる男は一握り……ね。うちの息子は、最初から空に愛されていなかったみたいね。あの子はとっても望んでいたのに」
 いけない。そうだった。雅臣の方が選ばれている――という話をしてしまったと心優は一気に青ざめてしまう。
「どうやったら諦めてくれたのかしら。なまじ、大親友の雅臣君が、健一郎の代わりのように大活躍をしてしまったものだから、あの子……自分も飛んでいる気持ちになれていたのかも。マリンスワローにいた頃は本当に『雅臣はすごかった、かっこよかった。俺の自慢』と喜んでいたのに。どうして……雅臣君が『雷神のキャプテンに抜擢された』と聞いて、あんな気持ちになったのか」
 いまでもわからない!!! 母の悲痛な叫びが響いた。
 ついに顔を覆って、伊東のお母さんが泣きさざめく――。
「もっともっと前に、あの子に違う生き甲斐をみつけてあげるべきだった。余計に空に夢見てしまったのよ、雅臣君のせいで……!」
 どうしよう! こちらのお母様も抑えに抑えて、心優の訪問に穏やかに対応してくれていたのに。触ってはいけないところを触ってしまった!? 心優の背中に汗が滲む。
 しかも伊東夫人は顔を覆って咽び泣く。その悲痛な声が続き、心優はもう言葉も出ないし酷いことをうっかり話していたと愕然とする。
「でも、」
 でも――と伊東夫人が顔を上げた。
「でも、止められないくらい……。あの子、雅臣君を応援することに夢中だったの。幸せそうに見えたの、だから……。パイロットになって活躍している雅臣君を憎んで、あんなことをするなんて信じられない……」
 絶対に息子は雅臣を憎んで事故を起こしたわけではないと信じる母親、でも、親友の憎しみを目の当たりにしてしまった雅臣。その事情を息子から聞いたアサ子母。なるほど。これは相容れないはずだと心優も実感した。
 それでも雅臣は聞いたという。『なんで俺じゃないんだ。俺だって空を飛びたかった。どうして雅臣は遠くへ行ってしまうんだ!!!』と叫ぶ彼を見ると、ハンドルを切って路肩の街灯に激突したと聞かされている。その時の彼の豹変した憎しみの顔と怒りに燃える目、その言葉がずっとずっと胸をえぐって忘れられないと苦しそうに教えてくれた。
 『遠くへ……』、それを聞いて心優は思った。『小笠原に行ってしまうと、一般人はそう簡単に会いには行けなくなる』だから? いまになってふとそう思った。
 泣いて叫んで、それが良かったのか。伊東夫人の声が小さくなってきた。
「ご、ごめんなさい。当時を知らない貴女にこんなことを言っても……」
「いいえ。皆様が苦しい思いをしてきたことはわかっているつもりです。ただ、そばにいることしかできなくて、聞くことしかできなくて、情けなく思っています」
 夫人が少しだけ気が済んだように微笑んだ。
「マサ君、長いわね。ちょっと見てこようかしら」
 夫人が席を立ったので、心優も一緒に連れていってもらうことに。
 仏間にしている和室。少しだけ開いている襖の隙間に、まだ仏壇に向かい合っている雅臣の背中が見えた。
「健一郎。おまえ、ファイターパイロットになりたかったんだろ。護る仕事がしたかったんだろ。だからさ、俺と行こう。ついてこいよ。また艦に乗るんだ。今度は副艦長に就任だ――」
 副艦長就任と聞いて、やはり伊東のお母様がハッと驚きで固まっていた。でもそこでじっとしている。子供を見守るような母の横顔。心優もそのまま控えた。
「いまな。俺達が二十代だった時とは情勢が違うんだ。けっこう厳しいんだ。おまえさ、頭良くて判断力もあって決断力もあった。な、力貸してくれよ……。俺だって。おまえと僚機になって飛びたかったよ。俺達最強のエレメントになれたと何度も話しただろう。俺はときどき、コックピットにおまえを感じてたよ。おまえの分までと思って――」
 そこで雅臣がふと顔を上げた。
「もしかして、おまえ。もう俺と一緒にいる?」
 雅臣が黙り込んだ。なのにまた障子があるガラス窓に強い風が当たっている。雅臣がそちらを見た。でも視線はすぐに位牌へ。
「な、行こう」
 そうしてずっと話しかけているようだった。もうそれだけで心優は涙がこぼれた。目の前にいる伊東夫人もなにかこみ上げたのか嗚咽を抑えるように口元を覆ってうつむいた。
 しばらくして落ち着くとお母さんから襖を開けた。
「マサ君、健一郎の部屋を見ていって。なにか気になるものがあったら持っていっていいわよ」
 雅臣が現世に帰ってきたかのような表情で振り返る。そして微笑んでいる。
「ありがとうございます、おばさん」
 二階にあるという彼の部屋へ行くことに。そこで雅臣は航海のお供を見つけられるといいなと心優もついていく。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 その部屋にも心優は驚きを隠せない。
 もう航空マニアそのもの。しかも壁には、雅臣が自分の部屋に貼っていた『スワローパイロットの広報ポスター』が、つまり雅臣の広報ポスターがあった。
 そこに雅臣を応援してる情熱をみた。スポーツで言うなら熱狂的サポーター。本棚には撮影しただろうDVDの山、そして雅臣と一緒の写真。マリンスワローのグッズがコレクターのように並べられている。
「うわ、健一郎の部屋、相変わらず飛行機だらけだな」
「そうなのよ。どんどん増えていって、飛行機ばかりでちょっと心配していたぐらいよ。女の子にも興味をもって欲しかったんだけれどね。休みになれば、どこかの展示飛行だとか基地の公開日だとかででかけちゃってね。雅臣君のマリンスワローが広報の日は、どんなに遠くてもおっかけていったしね」
「でも、俺も健一郎が来るのを心待ちにしていましたから。実際に、きついもんなんですよ。鬼の上官の恐ろしい訓練、過酷なコックピット。健一郎の励ましを待っていたんですよ」
 彼の机を見て、雅臣が切なそうな眼差しになる。お母さんもなにも言えないらしく、しばらく沈黙が続いた。
「俺、甘えていたんですね。健一郎の応援と励ましは本物でした。でも、だからって。俺は……。そう、ずっと、秘書官に転向してもずっと。健一郎にも、隊長の准将にも、そして……心優にも……。やっとわかったんです。それが俺の罪なのでしょう」
「マサ君、憎んでないの?」
「憎んだことなど一度もないです」
 言いきったそのひと言に、伊東夫人の目元がまた涙を滲ませ崩れる。憎みもせず、雅臣から『俺の罪』と吐露してくれたからだと心優は黙って見守っている。
「ただ、『どうして』、『話したい』、『嫌われていたのか、俺のせいで悩ませていたのか』という絶望ばかり。会えるのならば話し合えるのに、それも二度とできない」
「ごめんね、マサ君。あなただけでも助かって良かった。でも、飛べない身体にして貴方の仕事を奪ってしまって、ごめんなさい……ごめんなさい、ごめん……な……」
 ついに伊東夫人が雅臣の目の前で泣き崩れた。よろめいて落ちていきそうな小柄な身体を、大きな雅臣が逞しく腕だけで支える。
「ひさしぶり、マサ君がおっきい子だって。ひさしぶりに思い出したわ。ほんと、小学生の頃からビッグサイズだったものね」
「あはは。健一郎といるとデコボココンビだって良く言われましたね。でも健一郎はリーダーでいつも学級委員で頼れる男で信頼されていました。俺はそんな健一郎をいっつも頼っていたんですよ」
 いつものお猿さんの愛嬌スマイルになってきた。それにしても、心優から見ると雅臣の方がリーダーシップがある兄貴だと思っていたけれど、そういう見本になる男が親友だったのかなと初めて思う。
「だから。あいつ、いい指揮官になれたと思うんですよね。違う形で――。でも、俺もコックピットの世界に惚れ込んでしまったし、失った喪失感は大きなものでした。俺の上官や先輩達も、どうコックピットと別れるかというものに苛むようですから。夢見ていた男の絶望もいかほどだったか。それを見ようとしなかったのも俺の罪――。俺の罪が、ああなるキッカケ……」
「もう、やめて。マサ君……。お願い。もう、やめましょう。ね……」
 話せばこうしてわだかまりがとけていくのに。それが何年もできなかった。そして『すぐにはできなかった』のだと心優は思う。すぐにしようとすればもっとこじれていたはず。そして、今日だからいまの雅臣と伊東のお母様だから『話せるようになった』のだろう。
 でも。大丈夫そう。そして雅臣も自分のなにが良くなかったのか。その姿勢が親友の母の心を開いた気がしていた。
「雅臣君。航海任務に出るのでしょう。健一郎もつれていってやって」
「おばさん……」
「気になったもの、持って帰っていいわよ」
「ありがとうございます」
 望みが叶いそうで雅臣が笑顔で一礼をする。心優もホッとしてまた涙が滲んでしまった。
「なにがいいかな」
 雅臣も親友の部屋をキョロキョロ。
「そうそう、引き出しにもいっぱい入っているのよ。あの子が大事にしていたものばかりで、なかなか片づけられなくて――」
 伊東母が息子の机の引き出しを開けようとした。
「あら、開かない。なにか引っかかっているわね」
 引き出しが開かずに、お母さんの手がガタガタと無理に引っ張ろうとしている。
「おかしいわね。前はスッと開いたのに」
「貸してください」
 手が大きい雅臣が代わって引き出しを引いた。少しだけ『ガタ』としたが、雅臣がひっぱるとスッと開いた。男の力でなら開いたよう?
 その引き出しを雅臣とお母さんが一緒に覗いた。
「これが引っかかっていたのね」
 紺色の綺麗な箱がでてきた。
「こんなものあったかしら? まあ、滅多に開けないし、あの子いっぱい溜め込んでいるから気がつかなかったのかしら」
 不思議そうにしながらも、息子が奥に残していたその箱を彼女が開ける。
 その開けられた箱の中に入っていたものを知り、雅臣の表情が固まる。心優も同様に驚き固まった。
 箱の中身は『パイロットウォッチ』。
 ただ伊東夫人だけがなにもわからない顔で首を傾げている。
「時計? こんなもの、あの子、この引き出しにもっていたかしら」
 しかも心優の足下にひらりと箱の蓋にはりついていた白い紙が落ちてきた。そのメモのような紙を拾った心優はそこに『雅臣』と記されているのを見てしまう。
「お母様、これが」
 ひとまず母親の彼女に手渡した。それを開いて中身を読んだだろう伊東夫人が目を見開き、驚きで息を止めたようになってしまう。
「マ、マサ君。これ」
 その白い紙を雅臣に手渡した。雅臣もそれを眺め、同じように驚愕している。
「お、おばさん。これ、気がつかなかったのですか」
「え、ええ。時々、開けて、あの子の匂いを感じたりはしていたけれど。奥にこれがあったなんて覚えていないし、」
「心優、見てくれ、これ」
 白い紙を雅臣が心優にも差し出してくれる。その手が紙が震えていた。
 それを受け取り、心優も確かめる。

 

雅臣 雷神への抜擢、そしてキャプテン就任おめでとう。
マリンスワローに所属してからの、雅臣のフライトは磨きがかかったし、才能が開花していくのがわかった。
でも小笠原は遠いな。もう会いたいと思っても会えないかもな。機体はまだテスト用とのことだから、おまえが展示飛行の隊長として空に戻ってくるのはまだ先になりそうで寂しいよ。
それでも、あの伝説のフライトが復活する! 白昼の稲妻のワッペン、かっこいいよな。
スワローでもエースだった雅臣だから、雷神でもエースになれるだろう。フロリダから来るパイロットに負けるなよ。なめられるなよ。
そう思って。プライベートのアイテムには無頓着な雅臣に。アメリカのパイロット達が愛用している最高の時計を贈る。
誰もが憧れるかっこいいキャプテンになれよ! 雷神の白い戦闘機が青い空を舞う日を待っている。

 

 うそ。すっごい祝福してくれていたんじゃない。
 でも、心優はすぐに思い改めた。『渡せなかったんだ。用意していたのに、渡せなかったんだ』と。
 それは伊東夫人も雅臣もすぐに気がついたようだった。
「あの子、マサ君がどんどんパイロットとして昇進していくこと、受け入れられなくなっていたから、渡せなかったということなの?」
「いえ……。きっと、その後で、時間が経っても渡してくれたはずです。……生きていたら、きっと、きっと」
 雅臣の目から、また涙が溢れはじめる。今度は女二人の目の前でも憚ることなく大佐殿が男泣きをしている。
「マサ君、受け取ってくれるわね。航海に出る時つけていって」
「いいんですか。ほんとに。この時計、けっこうするんですよ。あいつ、こんな高価なもの、俺に――」
 いまの雅臣もいいパイロットウォッチを愛用している。彼が三十代の大人になって、大人の男のアイテムに精通するようになって選んだもの。でも、事故当時の若いパイロットだった雅臣にはまだそれなりの選ぶ目しかなかったのか。アイテムには精通していた親友がそこを気にしてお祝いに選んでくれたんだということらしい。
「む、無頓着ってひどいな。俺だってパイロットウォッチはそこそこ持っていたのに。でも……、これ、俺にはまだ早いかなと思って、手が出せなかったやつですよ」
「いまは立派な大佐でしょう。海に出て行くのでしょう。このような時計、役に立たない?」
「いいえ、役に立ちます」
 では――と雅臣がその箱を手に取った。
「ありがとうございます。大事に使わせて頂きます」
「マサ君、よかった。来てくれて、ありがとう。ほんとうにありがとう」
 雅臣の手に、最高の相棒ができた瞬間だった。
 その他に写真を数枚、雅臣はもらって帰ることにしたようだった。
 部屋を出る時、ふと心優は振り返る。
 お母様は最後まで不思議そうにしていた。『いつもはスッと開くのに』、『あんな箱があれば開けていたと思うに気がつかなかったわね』とずっと訝しそうにしていた。
 まさかね。雅臣が来るまで隠れてたかのような贈り物。他の人には気がつかれたくないと母親の目からも隠れていたかのような……。心優も不思議な気分になっている。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 心優も仏前に線香をあげ、『初めまして』と挨拶をさせてもらった。
「お邪魔いたしました」
 玄関先でおいとまのご挨拶をする。
「マサ君、気をつけてね。今日はありがとう。よかったら、また来てね」
「はい。帰省の時にまた来ます。必ず。おばさんも、お元気で」
 伊東夫人が初めて、清々しい笑みを見せてくれた。
 そのお母様が、ずっと静かに控えている心優を見た。
「やっぱり。貴女が連れてきてくれたのね。ありがとう、心優さん。また雅臣君と来てね。貴女も任務、お気をつけて」
「ありがとうございます、お母様。また雅臣さんと寄らせて頂きます。本日はわたしもご挨拶をお許しくださってありがとうございました」
 雅臣と一緒にお辞儀をして、車へ。雅臣が運転席に乗り込み、心優も助手席のドアを開けた時だった。
「心優さん」
 呼び止められ、心優は振り返る。伊東のお母様がちょっと気後れしたような顔で、ちょっと迷っている様子をみせる。
「どうかされましたか、お母様」
 迷った末とばかりに、彼女が笑顔で心優に言う。
「アサ子さんに会いたい――と、伝えてくれる? お嫁さん」
 また風が吹いた。心優と伊東のお母様の間を駆け抜けていく。
 でも心優は思った。『空気が動き出している』と。
「はい。伝えておきます。とても喜ぶと思います」
 明るく伝えると、伊東夫人もホッとしたようだった。

 

 伊東家の墓前にもお参りをしてから城戸の家に戻ると、リビングでお父さんとお母さんはゆったりとお茶をしているところだった。
 それでも息子が帰ってきたのを見ると、とても心配した様子で迎えてくれた。
「お帰り、雅臣。伊東さんはお元気だったか」
 お父さんも神妙な様子で静かに尋ねる。
「うん。おばさんといっぱい話してきた」
 息子の晴れやかな笑顔を見て、もうゴリ母さんがぶわっと涙を流しちゃったので、心優はギョッとした。
「ほんとかい。香織ちゃん、大丈夫だったのかい」
「うん……。最初は辛そうだったけれど。俺が健一郎に挨拶をするのを許してくれた後は、こう、溜まっていたものをお互いに吐き出すってかんじで」
 そして雅臣が晴れやかになった証拠とばかりに、贈り物の時計を両親に見せた。
「事故の前に。健一郎が俺の昇進の祝いに準備してくれたんだって。おばさんも今日初めて見つけたみたいだった」
 綺麗で重みのあるパイロットウォッチの箱を開けて、雅臣は両親に見せる。あの小さな手紙も。
 それを見た雅史父が沈痛な面持ちになり、アサ子母はもう泣き崩れてしまう。
「健一郎君の本心であって、迷いでもあったのだろう」
 お父さんのひと言っていつもずっしりするし、なんか安心すると心優は感じている。どう受け止めていいかわからない時の着地点を教えてくれるような。そんな感じ。
「あんなに応援してくれていたんだ。これが本当のケンちゃんだよ。なのに、あの時はあの子に悪いものが憑いていたに決まってる! 本心が出てきたんだよ。雅臣が来てくれて、見つけてくれたと思っているよ」
 随分と抽象的なような気がしたけれど、ゴリ母さんが言うとなんか野性的に感じてるような気もして、しっくりしてしまう。
「心優さんも大丈夫だったかな」
 雅史父が付き添っていった心優のことも案じてくれる。息子の死を招いたパイロットの親友がお嫁さんを連れて行って邪険にされなかったのかと案じてくれていたらしい。
「はい。時々、辛そうでしたが、わたしもお話しをさせて頂きました」
 そこで心優はアサ子母を見た。
「あちらのお母様が、アサ子お母さんに会いたいと伝えて欲しいと、わたしに……」
「え、ほんとうに? 香織ちゃんが? 私に?」
「はい。雅臣さんといろいろ話したように。アサ子お母さんとも積もり話がたくさんあるんだと思います」
「ほんとかい、ほんとに? 会いたかったよ、私も。話したかったよ、私も!」
 とうとうゴリ母さんが号泣してしまう。それをお父さんがそっと抱きしめて、よしよしと頭を撫でる旦那さんらしい姿。
 ほんとうに空気が動き出した。心優の中で、あの家にずっと強く吹いていた風が印象的。あの風がいろいろと動かしてくれたような。そんな気がする風。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 これで浜松でやりたかったことは全て終えた。
 城戸家での二夜目、明日はここを出発する。
 二夜目の夕食はまた真知子姉一家と、賑やかに囲んだ。
 そこでやっと心優は、城戸家に婿入りしてくれたという真知子の夫、双子のパパの『史也さん』と対面。
 こちらもさすが双子のパパ。プロレスラーのような大きめの体型でも大工で鍛えた引き締まった肉体。心優の兄に負けない体型だった。これはまた大型の双子が生まれるはずと心優も納得。
 しかも、お父さんも『双子』らしく、一卵性双生児で生まれた弟もいるとのこと。だから真知子さんに双子が生まれたのではという話題にも花が咲いた。
 もう食べる人間が、城戸のお父さん以外はすべて『大食らいさん』。
「まったく、こんな豪快な食事会になるだなんてね。大食らいが七人か。はあ、すごい」
 今日も大食らいさん達と気兼ねない食事にしようということで、お母さんと真知子姉が城戸家カレーを大きな鍋につくったものの。それがあっという間になくなってしまったほど。
 大きな寸胴鍋につくっていたのにどういうことかと雅史父が仰天している。しかもおまけにと作ってくれていた唐揚げもあっというまになくなった。
 また昨日以上に賑やかな城戸家の食卓。そこには晴れやかな雅臣の心から楽しそうな笑顔があった。

 

 今夜も雅臣の部屋で眠る。明日は沼津へ。挨拶をして昼食をご馳走になったあと、そのまま伊豆へ向かう予定だった。
 お風呂をいただき、雅臣の部屋がある二階へと階段をあがる。
 部屋着用のワンピースにカーディガンを羽織っている心優が二階の廊下に立つと、レザーパンツと白い半袖シャツすがたのゴリ母さんがいる。
「お母さん? どうかされたのですか」
 ゴリ母さんが振り返った。
「心優さん、誰かに会わなかったかい」
「誰か、ですか?」
「真知子も史也も双子も帰ったはずなのに。誰かが階段をあがっていったんだよ」
 え!? 仰天して心優はゴリ母さんのそばへ行く。
 ゴリ母さんは雅臣の部屋の向こうへ続く廊下を見ている。突き当たりはお手洗い、雅臣の部屋の斜め向かいは二階用の洗面台の部屋にユーティリティになっている収納部屋。そして向かいは窓。いるとしたら、洗面所?
「どうしたんだ、アサ子」
 お父さんが階段を上がってきた。
「父さん、誰かが階段をあがっていったんだ」
「はあ? 双子が勝手に入ってきたんじゃないのか?」
「いや、双子だったら二人分の足音だ。聞いたことがない足音だったよ」
 さらに心優はギョッとする。お母さん、野生の感があるんじゃないかと。それが臣さんのいい勘として受け継がれてきたのかなと思った瞬間。
 ミシ。
 あからさまにそんな音が聞こえた。心優にも聞こえた! やっぱり洗面所の奥!
「な、誰かいるだろ」
「い、いますね!」
「は? いないだろう?」
 お父さんだけが首を傾げる。
「心優さん、危ないからそこにいな」
 ゴリ母さんが勇ましく、そっと物音の場所へと近づこうとする。でも心優はお母さんの手をひっぱり引き留めた。
「待ってください、お母さん。わたしが行きます」
「だめにきまってんだろ。そんな危険な目にかわいいドーリーちゃんを」
「ですが。わたしは海軍の護衛官です。こんな時はわたしです」
「あ、そうか。心優さん空手黒帯だっけ」
「う、悪いね。心優さん……。でも、父さんはなにもかんじないんだけれどなあ」
 不審者があがりこんでいるならドキドキするし怖い。でも、ここは仕事で護衛をしている心優の方がプロ。『任せてください』と気配を感じようとしながら一歩前に出た。
 その時、開いている窓からひゅうっと風が吹いた。その瞬間、心優はゾッとした。
「さ、寒い。すっごい寒い!」
 アサ子お母さんが自分の身体を暖めるように腕をさすりまくって震えていた。
「アサ子、どうした。真っ青だぞ」
「わ、わかんない。いまの風、冬の風みたいに寒かった」
 アサ子母の半袖から出ている勇ましい腕にざっと鳥肌が立っていた。
 心優はそれを見て嫌な気分になった。何故なら、心優の腕にも鳥肌が立ち、そして凄く寒い。歯がガタガタしはじめるほどに!
「え、え。なんなの、アサ子も心優さんも」
 だけれど。三人一緒に顔を見合わせ、ハッとして窓へと振り返った。
 そして心優は確信を得たようにして、一応警戒をする構えで洗面所に近づく。壁に背をつけ訓練どおりの体勢で一呼吸置いてから、ドアをサッと開けた。
 誰もいない。なにも感じない。
「なにもないようです」
 心優の報告に城戸の両親がほっとした顔。
 だけれど、雅史父が眼鏡をふっと抓んで直しながら、開いている窓、風が吹いていったそこを見つめた。
「アサ子は昔から妙に感が強いんだけれど、心優さんも感がいいね。来ていたんじゃないの。それか雅臣のそばにいるのかもね」
「うわー、やめてくれ、やめてよ。お父さんったら。見たことなんか一度もないし!」
 アサ子母が騒いだが、そんな妻を余裕の笑顔でにっこりと見つめるお父さん。
 何の会話かわかって、心優は改めてゾッとした。
 今日の風、寒いと感じたり、母親が覚えのない箱。やっぱりいるの? ついてきてくれたの? え、アサ子お母さん、みちゃったの???
 雅臣の部屋のドアが開いた。
「なんだよ、うとうとしていたのに騒々しいな」
 のんびりのほほんとした雅臣が出てきた。
 彼はお父さん同様にそばに来ていてもなにも感じなかったよう?
 ゴリ母さんと心優だけに感じたもの。それはいったいなんだったのか。
 お盆も近いしね。あるかもね。ゴリ母さんはまだ寒い寒いと震えていた。

 

 

 

 

Update/2016.11.1
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