◇・◇ お許しください、大佐殿 ◇・◇

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 15. チャトラの嗅覚

 

 雷神飛行隊、主力パイロットの少佐二人が謹慎中。
 そろそろ東シナ海へ到達する。
 目を覚ます。心優がすぐ目にするのは、上部にある丸窓。紫苑の空に茜に染まり始める雲、まだ消えぬ星。
 タンクトップとショーツだけの姿で眠っていた心優は、ゆっくりと身体を起こす。結婚した時に雅臣が選んでくれたミリタリーウォッチを眺めると、アラームが鳴る時間まで一時間もあった。
「う……ん、……だんだんと葉月さんが言っていたようになってきてる……」
 『そのうちにアラームなしで目が覚めるから』。嘘だと思っていた。でもこれが『軍人の身体になっていくことなんだ』とわかってきた。
「せっかくだから、吉岡君と交代しようかな」
 昨夜の艦長室当直は光太が勤めてくれている。すっかり准将と馴染んだ、いちばん近い男の子となってくれたので、心優も安心して任せている。
 紺の指揮官チーム所属の訓練着を着込み、心優は小部屋を出て艦長室へ。
 やはり、今夜も葉月さんは一晩起きていたようだった。もう眠れないほど神経が立っているらしい。
 そんな人だとわかっている。出航後の数日は前回と違ってリラックスした様子で睡眠も取り食欲も旺盛。今回は仕事とは関係のない文庫本を持ち込んできて読んでいる余裕もあった。
 それでも。いまから眠らなくなるといざ決戦の時に大丈夫なのか心配になってくる。
「おはようございます」
 心優の挨拶で御園准将が艦長席から顔を上げる。
「おはよう、心優。よく眠れたかしら」
「はい。すっきりです。ほんとうに准将がおっしゃっていたように、近頃、アラームが鳴る前に目覚めてしまいます」
「あら。ついに心優も」
 その話を聞いていた光太も会話に入ってくる。
「俺はまだです。いつかそうなりたいです! ほんとにそうなれるんですか? お話を聞いていると不思議でたまらないですよ」
「大丈夫よ。光太もそうなれるって」
 デスクで早朝の事務をしてくれている光太の男の子発言に、またミセス准将が可愛らしいとばかりに微笑む。艦長と光太の会話を聞いていると、夜中の間もリラックスして過ごせたようだった。
「心優、お願いがあるの。ブリッジの階下に謹慎させている英太とフレディのところに様子見で朝食を運んでくれるかしら」
「かしこまりました」
「一応ね、謹慎させている者を厳重管理するために警備隊員を一人つけるわね」
 『はい』と返答し、心優はさっそく艦長室を出て届けられている朝食を受け取りに行く。
 一般隊員と同じ扱いなので食事は一般食堂から届けられる。調理師がわざわざ持ってきてくれるというので、ブリッジの受け渡し場所で一緒に来てくれるという警備隊員と待っているところ。
「警備隊員って……」
 一緒に隣で待ってくれる黒い戦闘服姿の隊員は、金髪王子。
「なんだよ。おなじブリッジ配属なんだから、警備で使うなら俺だろ」
「だってシド。ほとんどブリッジにいないじゃない。見かけないじゃない」
「夜中は付近をうろついているけどな。もちろんブリッジの指令セクションの警備な。指令室に配属されたのもそういう任命だからな」
 心優や光太のように事務室のような場所にこもって常に艦長の側、そんな護衛とは異なるということらしい。
 厨房から食事が届けられ、心優はそのワゴンを受け取りシドと謹慎部屋へ向かう。
 階下にあるため、エレベーターに乗る。ワゴンを押している心優の代わりに、シドがエレベータのボタンを押してくれたり、ドアを開けたままにしてくれたり、操作をしてくれた。
 ドアが閉まる。甲板レベルのだいぶ下の階になる。エレベーターが動くとシドが間を持たせるかのようにして話しかけてくれる。
「にしても、英太兄さん、やっちゃったな」
 基地では御園ファミリーとして親しくしているシドも苦笑いを浮かべている。
「それでも、相棒のクライトン少佐と奥様を思ってのことだもの。事情がわかったら私も英太さんらしいなと思ったもの」
「あの人、バカみたいに真っ直ぐだからなあ。そのくせ、そのまっすぐを悟られたくなくてわざと素っ気ないふりするんだけれどバレバレだっつーの」
「わかる、わかる。杏奈ちゃんとそうだよね」
「杏奈のこと話題にするなよ。うっかりしたこと言えないだろ。どうすんだよ。マジで杏奈がもうちょっと大人になって英太兄さんと本気になったら。葉月さんとかさ、隼人さんとかさ、娘を奪った男になるんだからな」
 そうか、そうなるのかと改めて心優も思い至った。そんなまだかわいいお嬢ちゃんと、両親が親しくしている若いおじさんぐらいにしか見えない。
「心優も、あの二人を側で見て、なんとなく感じていたわけか」
「シドもそうなの」
「英太兄さんだけ見ていてもわかるだろ。あの人、必死に隠しても隠しきれないんだから。周りのおじさん達もうっかり話題にしないだけで、だいたいわかってる。きっと母親の葉月さんも、父親の隼人さんも、皆が話題にしないこともわかっていて素知らぬふりしているんだ。だから、心優もうっかり奥様と隼人さんの目の前で話題にするなよ」
「わかってるよ……。うっかり言えないよ、わたしだって」
 抱き合うふたりを見たことがある。その抱擁にいやらしさはなく、端から見れば家族同然の愛情を込めた純潔なものだった。でも、ひとつの壁を越えたらあっというまに溶けあってしまいそう、そんな熱も感じてしまった姿を心優は目撃している。
 たった一回見ただけの、大人びたお嬢ちゃまと大人の兄貴の抱擁。たったその一度だけだったのに、心優の中ではもうただならぬ関係になってしまっている。
 その空気を周囲の誰もが既に感じ取っているという。
「でも。それなら、鈴木少佐だってちゃんと帰還しなくちゃいけないよね。自分は独身だから、父親になる相棒よりも、もっと危険な前線にいけるなんていうんだもの」
「まあ、いまなら。杏奈とこれっきりになっても……、どうってない関係だからな」
 彼女がまだ子供、ここで大人の親しいお兄さんが突然いなくなっても、将来がある。そう言いたいらしい。
「杏奈ちゃんはとても慕っているのでしょう。家族同然なら哀しむじゃない」
「哀しむって。杏奈も軍人一家のお嬢ちゃんだからな。親が親戚が、知り合いの大人が、いつどのようになってもおかしくないことぐらいわかって育ってきただろう。母親を、親しい兄貴を送り出すたびに子供でも覚悟してきただろうさ」
 とてつもなくドライなシドの返答だった。彼もそういう育ち方をしてきたから、あまりにも自然に言えることだとわかっていても、心優はショックだった。
「やだ、シド。わかっていてもそんな、当たり前みたいに言わないでよ……」
 隣にいるシドが、心優を見下ろしたかと思うと、ハッとした顔になっている。どうしてそんな顔になっているのかわからなかった。
「な、なんでおまえが泣くんだよ」
 え? 泣いているの? 心優もはっとする。でも確かに目頭が熱い。指を目尻に当てると涙がついた。
 そこで心優もうなだれる。
「クライトン少佐が、妊娠した奥様にお返事が送れない話を聞いちゃったから。どんなふうにして待っているのかなって思ったら辛くて……」
 シドが溜め息をついた。
「なんだよ、新婚の奥様の感受性を刺激しちゃったわけか。って……そういうの、臣さんを想って泣くもんだろ」
「臣さんだけじゃないよ! ロザリオ預かっているんだから、シドもちゃんと還ってくるようにしてよ!!」
 だからそういう当たり前みたいなドライなことを言わないでとつい憤ってしまった。
「心優、おまえさ……、」
「え、なに?」
 思わず滲んでしまった涙を指先で拭っていたら、密室のエレベーターの中、シドがじりじりと心優へと近寄ってきた。
「おまえ……、なんで時々、そんなに俺をさ……」
 ドキッとする。綺麗な金髪の前髪、透き通るアクアマリンの瞳の彼がもう目の前に、たくましい腕が心優を囲ってエレベーターの壁に手をつこうとしていて……。
 そこでエレベーターのドアがピンと音を鳴らして開いた。『ちっ、どうかしていた』と小さく呟いたシドが、エレベーターのボタンを押してドアを開けっ放しにしてくれる。
「ほら、早く行けよ」
「あ、ありがとうございます」
 急に大尉殿に接する気持ちになってしまっていた。
 シンとした通路。海面に近い階下でひんやりとした空気を感じた。あまり人がいないため静かでかえって不気味。
 そんな心優を知ってか、シドが先に歩き出す。
「こんな静かな通路でも三十分置きには誰かが通るように警備されているんだよ。おまえ、臣さんから謹慎部屋の外鍵もらってきたんだろ」
「うん、ここにあるよ」
 艦長と副艦長、そして指令室長のみが管理している大事な鍵をひとつあずかってやってきた。電子とデジタル対応のカードキーと、アナログ対応の南京錠の鍵、ふたつある。
 その静かな通路を食事用ワゴンを押してシドと歩く。先ほどの急激な熱はもう二人の間ではクールダウンされていて心優もほっとする。
 黒い戦闘服姿のシドの背中が目の前に。細身ではあるけれど鍛え抜かれた肩に腕、警棒を常に下げ、無線機も身体に装備していた。今回はほんとうに警備隊員の一員だった。
「なあ、葉月さんからコーストガードについてなにか聞いていないか」
 心優は驚く。艦長も沿岸警備隊コーストガードについて気にしていたから。警備護衛をしているシドにとっても気になることなのか。
 しかし艦長の言動をおなじブリッジのセクション配備の隊員とはいえ易々伝えて良いものか心優は迷う。
「どうして。コーストガードて沿岸警備隊だよね。海軍とはまた業務が違うし……」
「まあ、葉月さんが気にしていたとしても、腹の中は見せてくれないだろうな。強いて言えば、海東司令もだ」
 まさにドンピシャなやり取りが数日前にあったばかりだったので、心優は驚きで固まってしまう。どう反応すればいい? もうシドだから言ってしまえばいい?
 でもシドから話を続けてくれる。
「前回、海から潜入されただろ。だから今回はそんなことがないように厳重に不審船に対して警備をして欲しいと葉月さんは思っているだろうな」
 そうだよ、そのとおり。だから艦長は海東司令に『コーストガードはどう配置されているのか』と聞いてしまったのだから。
「コーストガード側も警備については極秘に巡回しているだろうから、情報共有をしているのは上層部のみ。海東司令は知っていても、こっちの艦には教えてくれないだろう。なるべく知っている者を少数にしていくのも防衛のひとつだからな」
「でも今回の巡回航行はこれだけ警戒している対戦が必ずあるとわかっているでしょ。そんな大事を構えている状態の中、前回のように海中から潜入されないためにも、今回は絶対に沿岸警備隊も配備しているよね」
「しているだろうな。俺もそう思うし、金原隊長もそう言っていた。というとはだ……、『敵方もそう思っている』ということだ」
 ということは……? シドが思わぬことを言う。
「外側の潜入は避け、隊員の顔をして紛れている可能性もあるってことだな」
 もう心優は息が止まるほど驚いた。そして彼に思わず食ってかかる!
「あるわけないじゃない!! どの隊員も身元を確かにして乗船させているんだよ」
「だからそれもパスしてということだよ。このことは葉月さんも明言はしていないけれど、予測していると思う。クルーを不安にさせないために言わないだけだ。おまえの父ちゃんをわざわざ横須賀から呼びたいと金原隊長が決したのも、葉月さんから『今度は内側から来てもいいように備えて欲しい』と言われたからだよ。おまえの父ちゃん、めちゃくちゃ本気だっただろ。初っぱなから娘をぶっ叩いたのも、今回の任務でもっと気合いを入れて欲しかったからだろ。おまえだけじゃない。俺たち警備の戦闘員もだ」
「そ、そうなの」
 心優の脳裏に、大魔神のように恐ろしかった父が蘇る。いままでの格闘指導とは確かに違った。父の目の色も表情も勢いも知らない父だったし、経験したことがない訓練だった。
「俺もそうだ。極秘に潜り込んで護衛しろと言われそうなところ、今度は堂々と警備ができるようにしてくれたのも、それだけ警戒しているってことなんだろ」
「今回は? シークレットの隊員は、また配備されているの?」
 前回のシドのように、シークレットの密命を受けている隊員の潜入はあるのかと問う。だがシドも首を振る。
「表側に配属されたから、裏側の指令は俺にも伝わらないだろうよ」
「でも、葉月さんはわたしには『内側を警戒して欲しい』なんて、そんなことひとことも……」
「予測でものを言わないのが艦長だろ。ましてや、まだ護衛について一年の女の子を動揺させたらいけない」
 まだ一年の護衛官。シドのはっきりした物言いにさらに心優は愕然とする。でもそうであるのは確か。
「毎日側にいる者を動揺させるぐらいなら言わないと決めているんだろう。その点では心優自身も自分はまだまだだと思っているんだろ? おまえとこうしてゆっくり話せる時が来たら伝えておこうと思っていたんだ。おまえ、あんなことが二度と起こらないと思っているのか」
 さっと血の気が引いていくのが自分でも分かった。またあんな恐ろしい対決があることを恐れているのではない。『油断している自分がいる』といまここで知ってしまったから!
 春日部嬢の態度と言葉を思い出していた。『こんなこと何度も起こりませんよね。だから今回、私が艦に乗ってもきっと大丈夫。なにも起きない。この基地の事務所で勤めているのと変わらない』、あの安心しきった受け止め方。心優は既に危機に遭遇した経験があったので『本当にあるのよ、危ないこと!』と言い切れる立場にあった。でも……。
「ほらな。二度と起きないと思っていただろ。内側に潜入されていたら、いつどうなるかわからない。気を引き締めておけよと、言っておきたかった」
 心優は立ち止まる。その気配に気がついたのかシドが振り返った。
「ありがとう、シド。ちょっと油断していたかも……」
「隼人さんがいて、随分と艦長室の空気が和らいでいたからな。あれはあれで今回は効果はあると思う。でも……、流されんなよ」
 この男性はいつも危険な匂いを嗅ぎ分けようとする本能が備わってしまっているんだ。心優はそう思った。アスリートとして辛いことはあったけれど、心優はなに不自由なく育ってきたほう。安心したい方向へとすぐに流れていく。でも『チャトラ』は違う。トラ猫王子はそうして匂いを嗅ぎ分けている、安全か、危険か。それを察知していた。
「あの部屋だな。英太兄さんが退屈していて、ドアを開けたら飛び出していくんじゃないかって警戒してしまうな」
 また苦笑いをこぼしたシドから、その部屋へと向かっていく。
「大丈夫よ。昨夜もハワード少佐がお食事を持っていったけれど、大人しかったと言っていたもの」
 謹慎は本日の夜、就寝時間に解除される予定。心優は鉄のドアをノックする。
「おはようございます。艦長室の園田です。朝食をお持ちしました。いま開けます」
 預かってきた鍵を使って、心優はドアを開けた。
 むわっとした男の匂いが漂っていた。栗毛の男は上部にある僅かな隙間の窓を見上げていて、黒髪の男はベッドに寝そべっていた。
「おはようございます、園田中尉」
「はあ〜、もう朝か〜」
 きちんとしている男性と、やっぱり悪ガキな男とだいぶ違う態度だった。
「もうな、おまえだらけすぎだからな! もうすぐ朝食で誰かがくるからちゃんとしろと言っていただろ」
「だーってな。なんもすることねーんだもん。おまえと話すのも疲れた」
 それでもむっくりとあくびをしながら鈴木少佐がベッドから起きあがった。
 一昨日の夕方からの謹慎。なにも持ち込めない状態で閉じこめられた二人には、着替えと歯ブラシの差し入れがキャプテンのウィラード中佐から届けられただけで、雑誌やパソコンなどの娯楽用品は一切与えられなかった。
 トイレとシャワーがあって、あとは食事が運ばれてくるだけ。なにもない。それが謹慎の生活。刃物も与えられないため、二人は既にもっさりとした不精ヒゲになっている。
「お食事です。どうぞ」
 デスクはあるので、そこに食事のトレイを心優が置く。
 それだけが楽しみとばかりに、二人が席に着いた。
 そしてワゴンにはオマケがあった。
「艦長からの差し入れです。珈琲を淹れるようにいわれています。いま、準備しますね」
 それだけで謹慎中のふたりの表情が柔らかい微笑みを浮かべた。
 そろそろそうしてあげても差し支えないだろうという葉月さんの気遣い。いつも秘書室でそうしているように、ワゴンの上で珈琲をドリップする。
 そこら中に漂う珈琲の香りに、もっさりとしているパイロットの男ふたりがうっとりとした表情をしてくれると心優も嬉しくなる。
「あと少しで解除ですね。お疲れ様です」
 そう言葉を添えながら、心優は出来上がった珈琲を入れたカップを、それぞれの少佐の傍らに置いた。
「騒がしくいたしまして、艦長室ではご迷惑おかけしました」
 クライトン少佐の流暢な日本語に、今度は心優がうっとりしてしまう。ほんとうにこちらのお兄さんパイロットは行儀がいい男性。生真面目なアメリカ青年といったところ。でもクールな眼差しが大人っぽくて、そこがスプリンターの色気だと心優は思っている。
「ったくよ、まさかまたこの部屋に閉じこめられるとは思わなかった」
 そしてこちらはやっぱり悪ガキなままの鈴木少佐。クライトン少佐みたいに綺麗な言葉で会話することもなく、どちらがお行儀の良い言葉遣いができる日本人なのかわからなくなってしまうほど。
「英太兄さんも相変わらずだな。とっくみあいの喧嘩てなんだよ」
 弟分のシドも割って入ってきた。
「俺からじゃねえよ。飛びかかってきたのフレディからだからな」
 そうでなければ、俺だってやらねえよ。もういい大人なんだからと悪ガキからそんな言葉。
「だよな。普段は大人の兄貴だと頼りにしているクライトン少佐を怒らせるなんて、よっぽどだったんだよな。やっぱ英太兄さんが悪いんだよ。だからいまだに悪ガキなんて言われるんだろ」
「はあ? おまえ、シド、このやろっ」
 遠慮ない物言いのシドに、いつも仲良くしている兄貴の鈴木少佐がまた憤った。それをクライトン少佐が『やめろ』と止めるいつものきちんとした構図。
「シドがいうとおりだ。俺がやりはじめたからこそ、こうなってしまったんだ。反省している。でも、俺もどうかしていたな……」
 今回の騒ぎで滅入っているのは、このような処罰は慣れていないだろうクライトン少佐だった。
 鈴木少佐が騒ぎの発端であったとしても、お兄さんのクライトン少佐が彼を制御すれば収まる。これがいつもの安全装置。なのに今回はその安全装置のご自分から取っ組み合いを始めてしまったから、あの騒ぎになったのだと心優も思う。
「奥様が初めての妊娠をされたのに、一緒にいられないのは不安ですよね。仕方がないと思います」
 コーヒーの香りを楽しむ少佐二人の間でうかがっていた心優からそう言うと、クライトン少佐が『ありがとう、気が楽になったよ』と微笑んでくれたので心優も安堵する。
 そんな二人がやっと落ち着いて食事を始めたので、心優もしばらく見守っていると。
「これ、いつものな」
 クライトン少佐が自分のトレイにあるマーガリンとストロベリージャムのパックを鈴木少佐のトレイへと置いてしまう。
「サンクス、いっただき」
 当たり前のようにして鈴木少佐も自分の分ともらった分のマーガリンとストロベリージャムをたっぷりとトーストに乗せたので心優はびっくりする。
「あの、クライトン少佐はマーガリンは不要でしたか」
「アメリカの実家にいる時から自分はスープと一緒に食べるものだから、なにもつけなくていいんだよ。その分、英太はまだ子供みたいな味覚を好むし、カロリーをばっちりとりたい癖がついているみたいで、ジャムがあるとあんなふうに……。見ていると胸焼けしそうだけれど、もう見慣れたよ」
 それぞれの食べ慣れた好みがあるようで、でも、二人一緒に幾たびも食事をしてきた姿もほんとうに通じている家族のように心優には見えた。
「園田さん、本日の夜間に謹慎がとけるはずですが、もう目的海域に到着しているなどありませんよね」
 クライトン少佐から急に業務について問われる。二日間、業務周知がない状態で部屋に閉じこめられているため、空母と飛行隊がどうなっているのか気になるようだった。
「まだ到着という報告は受けていません」
「ですよね。到着すれば、そこを起点として停泊するはずだろうけれど、艦は動いて航行しているようなのでまだ到着ではないとは思っていたのですが、大丈夫ですね」
 この人もファイターだなと痛感してしまう。シドもそう、クライトン少佐も。緊張差し迫る任務を請け負っている男は先へ先へと予測を立て、いつだって胸がざわざわしているようだった。
 お二人がようやっと穏やかに微笑みあい、仲良く食事をしているのを見て、心優も一度退室しようとした。

 ――ホットスクランブル!

 突然の指令放送がこの部屋にも響き、緊急配置を促すためのサイレンも響いた。
 心優も、シドも、パイロットの二人もハッとし何故か天井を見上げてしまう。そこにスピーカーもあるし、空が見える窓があるから!
「くっそ! 葉月さんにやられた!!」
 さらに心優は仰天する。食事をしていた鈴木少佐が立ち上がり、鍵が開いているドアへと走り出そうとしているから!
 だめ! 謹慎中の隊員が決められた部屋から一歩でも外に出たら、もう取り返しがつかなくなる! 咄嗟に心優の身体が動いて鈴木少佐を止めようとしたが、あちらも反射神経が素晴らしいのかもう走り出した背中しか視界にない!
「英太、止まれ!! 落ち着け!!」
 クライトン少佐のキンと尖った怒声に、鈴木少佐も我に返ったのか立ち止まった。
「園田さん、早く! そこのドアの施錠を!」
 この悪ガキが飛び出さないうちに締めて欲しいという意味。
「心優、行くぞ」
 シドに腕を引っ張られ、心優も我に返る。
「失礼いたします。後ほど参ります!」
 シドと一緒にさっとドアを出て、その鉄ドアを閉めようとするのだが。一度立ち止まった鈴木少佐の形相が変わり、ドアが閉まる隙間に狙いを定めたようにしてこちらにダッシュ、向かってくる!
「心優、閉めろ」
 またシドに言われ鉄ドアをがしんと閉めた。閉めたけれど! 鈴木少佐がガンガンと内側から叩いてきて、夫の雅臣のようにガタイの良いエースパイロットの剛力に押し返されそうになる。
 ガンガンと叩かれるたびに、閉めたはずのドアに隙間が空く。
「なにやってんだ!」
 女の力では押し返されるとわかってか、心優の頭の上からシドがたくましい両腕をつっぱっねてドアを押し返してくれる。
「はやく鍵をかけろ! 英太兄さんの闘志にスイッチがはいるとなかなか鎮まらないと知ってるだろ! 早くしろ!!」
「わ、わかってる。待って、いますぐ!」
 ガンガンと叩かれる鉄ドア、勇ましいシドがぐっと抑えてくれている間に、心優も電子ロックをかけ、鍵穴のロックをやっと済ませる。
「落ち着け、英太!」
 ドアの向こう側でクライトン少佐が興奮してしまった鈴木少佐を宥める声。
「待ってくれ、園田さん! 俺とフレディをすぐにこの部屋から出すように、葉月さんに頼んでくれ!」
 どう返答していいかわからず、鍵をかけるだけで精一杯、謹慎中の大事なパイロットが再度処分をされるようなアクシデントに発展しなかったことに胸を撫で下ろすだけ。
「くっそ。知らされていた到着日数より早めじゃねえかよ! またあの姉貴が、俺達もまとめて裏をかいたんだろ! 葉月さんがやりそうなことだ。俺達が謹慎している間に、雷神の先輩達だけで事足りなかったらどうするんだよ!!」
「そのようなことは、艦長と城戸大佐がなんとかしてくれることだ。俺達は謹慎が最優先。それ以上のことはいまはなにもできない状態だと弁えろ。このような時に役に立てないと口惜しい思いをしてしまう。それが謹慎だ。落ち着け!」
 ドアの向こうのやり取りに心優もハラハラする。だがシドは違った。
「おまえ、危なかったぞ。あれで英太兄さんが部屋を飛び出していたら、英太兄さんはもう今回の任務から外されたし、俺も心優もなんらかの処分を受けていただろう」
 心優はまた青ざめる……。
「……ごめん、シド。シドがいなかったら……」
「俺だってびびったよ。それよりも、ついにこっちから出撃なんだからブリッジに行くぞ。もういままでのことは忘れろ。いまからだ、いまから気を引き締めろ」
 泣きそうになってこぼれそうになった涙を心優は堪え、強く頷いて前を向く。
 ついに開戦か。それは夫の指揮官としての戦いの始まりでもあった。
「行こう、シド」
 彼と一緒にブリッジ管制を目指す。その時にはもう戦闘機がカタパルトから飛び立った轟音が聞こえた。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 ブリッジ管制室へ向かう階段を上りきったところで、シドが立ち止まる。
「俺は警備に戻る。スクランブル発進があった時の警備体制があるんだ。心優は管制へ」
「ラジャー。シド、気をつけて」
 金髪の彼が敬礼をして、でもクールな面差しを残してブリッジ外へ出る通路へと駆けていく。
 心優も管制室へ急いだ。ドアを開けて入ると、指揮台には御園艦長、そして御園大佐、レーダーの前には既に雅臣がヘッドセットをして先頭に立っていた。
「艦長、ただいま戻りました」
 雅臣の後ろに控えているミセス准将に声をかけると、彼女も頷いてくれるだけ。
「明日の到着まで、他の基地が対応してくれるのではなかったのですか」
 葉月さんに裏をかかれたと憤っていた鈴木少佐の疑念は、同じように心優の中でも湧き起こっている。
「そうね。でも、そろそろいいかなと思って――『到着』ということにしたの」
 しらっとした横顔で、ミセス艦長がこともなげに告げたことに心優はショックを受ける。
「どういうことですか」
 彼女のやることをただ側で見ているだけでいい。心優はまだそういう位置づけの若い護衛官だとわかっている。でも、シドも『葉月さんは腹の底を見せない』と言っていた、鈴木少佐は『また俺達まとめて裏をかいた』と言っていた。心優もおなじ気持ち! 『わたしにはなにも告げずに予定を変える』!
 それでも御園准将は雅臣の背中をじっと見つめたまま、完璧なアイスドールの横顔のまま。
「横須賀の中央指令管制センターに『到着』と報告した途端にこれよ。おそらくあちらの地上の基地でもかなり緊迫していて負担がかかっていたのでしょう。早く雷神に出撃してほしいと心待ちにしていたことでしょう。そう思って、わたしの一存で『少し早めのところで、到着にしよう』と最初から決めていたのよ」
 最初から、決めていた? その心積もりにも心優は仰天する。
 しかし、そこで心優はまたシドの言葉を思い出す。『内側にいるかもしれない』、『情報を知っている者は少数にしておくのも防衛』。シドのその気構えそのままのことを、わたしのボスがやっているのだと。
「城戸大佐はご存じだったのですか」
「いいえ。でも昨夜から、そろそろなにがあるかわからないから、いつでも飛び出せるよう準備しておくようには言っておいたわよ」
 これが艦長の仕事と判断。心優は久しぶりの艦長の采配にぞくっとしたものを感じた。
 その御園艦長がヘッドセットをした雅臣の背を見つめながら、ふっと微笑んだ。

「待たせたわね、王子君。お待ちかねの白い飛行隊よ」

 ――『機影、確認』。
 雅臣がみつめている1号機スコーピオンのガンカメラの映像が夜が明けた空を写しだしている。
 そこにあの大陸国飛行隊のペイントがあるスホイが遠くに見える映像が……。
「来てやったぞ、待っていただろ俺達を!」
 ヘッドセットをしてパイロット達の指揮についた雅臣の目が輝いていた。
 ソニックの目、シャーマナイトの目。彼の手元にあるモニターにはグレーの機影、そして1号機スコーピオンのヘッドマントディスプレイに反映されている高度などのデーターメモリーも見える。夫の心はもう空へ飛んでいる!
 ミセス艦長の隣に、眼鏡の大佐殿もやってきた。ご夫妻が若手の指揮官である雅臣の背中を見守っている。
「近づいてくるのか、こないのか」
「どうかしらね。あちらの『白い飛行隊を出せ』という要求に応えたわよ。では……どうするのか……」
 雅臣も様子を眺めながら、肩越しに振り返って御園艦長に報告する。
「機影は見えますが、近づいてきません」
「そのままスコーピオンとドラゴンフライに撮影と措置をさせて」
「2号機のドラゴンフライのアナウンス続行します」
 誰も彼もが落ち着いている。ハラハラしているのは心優だけ。やっぱりまだこの現場、本番は、パイロットではない心優にはとてつもない緊張に縛られる。

 

 

 

 

Update/2017.5.19
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