8.ジレンマ

 

 何処とも解らないリゾートホテル。

 解るのは『日本近海』と言うことだけ──。

 

 一番最上階にあるスイートに知らぬ間に連れてこられて

涼しい風が海風が入る部屋の大きなベッドの中…。

肩まで髪が伸びた少女は、隣で煙草を吹かしている逞しい身体の男を見上げる。

『ねぇ? お兄ちゃま? 最近、真一がね?』

『フン。知らない。そんなこと。』

『どうして!? シンちゃんがこのままおかしくなっても、お兄ちゃまは平気なの?』

『……』

『お兄ちゃまは昔から、意地悪!』

彼の背中には、たくさんの傷跡。

彼が一人きりで戦い抜いてきた軌跡だった。

その背中に抱きついて葉月は泣いた。

20歳の春…。彼が突然現れて、久しぶりに抱かれた5月の暑苦しい夜。

葉月の素肌を、素手で優しくいたわってくれる唯一の男…。

口では、冷たいことを言って行動では影ながら支えてくれる人。

『黒い手袋をしたおじさんから貰った!』

(お兄ちゃま!やっぱり…シンちゃんに会ってくれたのね!)

初めて…甥っ子と彼が接触した。

葉月と真一と彼だけの秘密…。

葉月の願い通り…彼と接触した後、真一は元通りの活き活きした元気な子供に戻った。

『ううん…。』

「おい?葉月?大丈夫か?」

誰かに身体を揺すられて葉月はフッと目が覚める。

目を開けると…眼鏡をかけた黒髪の男が心配そうに自分を見下ろしていた。

「隼人…さん…。」

葉月は、額の栗毛をかき上げて気だるく起きあがる。

額にはうっすらと…汗をかいていた。

起きあがると、眠り始めてからそんなに時間が経っていなかった事を確認。

その証拠に、隼人は何時も通り自分の横で、寝付き前の読書をしている姿だった。

「寝付いたと思ったら…暫くして唸り始めて…。」

『大丈夫か?』と…彼の大きな手が、葉月の頬を覆う。

「うん。平気…。夢見ていただけ…。」

「時々。うなされているよな。」

だからかどうか知らないが…隼人は何時も葉月より後に寝ている。

朝、横にいる日もあれば、葉月が寝てから林側の書斎で寝たり…

隼人の選択はまちまちだった。

『まちまち』なのだが…大抵は葉月の横で本を読んで見守っているか…

もしくは、先に寝床に入った葉月がしっかり寝付いているか確かめてから…

書斎の部屋に行くようで…そんな隼人の気遣いは頭が下がるほどだった。

そんな彼が、側にいてくれるから最近は薬も飲まなくなった。

「『おにいちゃま』って言っていたよ。真さんの夢?」

隼人がなんだか…寂しそうな瞳で葉月を見つめる。

そうじゃないが…『おにいちゃま』は今のところ…

隼人の前では、『真』か…『右京』だけ。

だが…隼人にとって意識する『おにいちゃま』は『真』の方だった。

「うん。そう…。いてくれたら…言うことないのに。」

「あっそ。もし彼が生きていたら…俺はどうなっていたのかな?」

隼人が拗ねたので…葉月も途方に暮れてしまった。

いつも、同僚にからかわられても冷淡な彼が

二人きりの時にはこんなジェラシーは平気で見せたりする。

それも…過去の男も、仕事場の仲間のことは隼人も余裕で何も言わないが…。

真の事となるとかなり敏感だった。

「私なんて…何時も言ってるでしょ?真兄様にとっては何時までも『妹』。

兄様は亡くなるまで…ずっと・お姉ちゃま一筋だったんだから。

私が…いてくれたら・言うことないっていうのは…真一の『父親』としていっているの!」

「ゴメン…。そうだよな…。真一にとっては…いなくちゃいけない人だったんだよね…。」

『言い過ぎたよ』と隼人がそっと肩を抱いてお詫びの印に耳元に口づけてくれる。

何時だったか…。

隼人と葉月が一緒に暮らし始めて一頃した頃…。

真一が隼人に『真』の写真を見せていたのだ。

『俺の父さん!隼人兄ちゃんにちょっと似ているでしょ?』

隼人はその写真を見て、なんだか困ったようにしていた。

それもそうだろう…。

葉月の初恋だったお気に入りのお兄ちゃまの代わり…。

自分は『代理』なのかと思ったに違いなかった。

隼人は、『真』のことを…

『亡くなったのは25歳だろ?若いのに…すごく大人の雰囲気がある人だね』と言った。

『一児の父親だったからじゃないの?』

『葉月は…どうして彼のことを好きだったの?』

『………。幼いときの憧れなんて理由はないわよ。そうじゃないの?』

『………。そうかも?』

隼人にも思い当たる節があるのか、そこはそれで引き下がってくれたのだ。

だけれども…隼人には何か見透かされているような感触が葉月にはあった。

ベッドの上で肌を合わせているときも…

隼人はなんだかしつこいぐらいに、葉月から離れないときがある。

『何を考えている?俺だけみてくれよ…。』と

そんな訳の分からないことを呟くことがある。

自分の心の中に一枚だけ開けない扉。

隼人はそれが葉月の中にあるのを知っているようだった。

そこに…真でない…男がいることは知るはずもなく…。

知るはずもないから…その扉の奥には『おにいちゃま』である『真』がいると思っているのだ。

頭の良い隼人の『勘』は当たっている。

葉月も気が付かなかったが、隼人によって知ってしまった。

私の心の奥に…『お兄ちゃまが住んでいる』

『真』じゃない『おにいちゃま』が…。

その扉をこじ開けて…奥に潜んでいる男を隼人は振り払おうとしているのだ。

葉月だって追い出したい。

でも…その扉は…今でも隼人は開けるほどではないのだ。

葉月は待っている。

その扉を。今の恋人が開けてくれることを…。

でも…その扉の奥に住む男が『いなくなる』となんだか怖かった。

やっぱり…『他人の男』が開けるのは無理があるのか?

隼人のことは『愛している』のだが…。

いつまでこの『甘い愛』が続くか…葉月はいつもの恋愛のようにふと不安に思うのだ。

(シンちゃんが…知ってしまったのに…お兄ちゃまはしらんふり…意地悪ね)

隼人が肩を抱いてくれる胸の中…。

葉月も、全く姿を見せない無責任な男にため息をついていた。

 

 

 その晩も…隼人の不安を煽ってしまったのか、ずいぶんと求められて

夜中になって隼人と葉月は裸で眠りに付こうとしていた。

 

「なぁ…。葉月?」

「なに?」

「真一のことだけど…。」

「なに?」

真一のことは…。成績が落ちて以来隼人も必要以上は問いかけてこなかったので

葉月は『ドキリ…』とした。

「無理に明るくしているんじゃないかって…時々不安になるんだ。

放っておいていいのかよ?大切な時期だと思うよ?

俺がそうだったからっていう訳じゃないけど…

俺みたいに堅く閉じこもるとやっかいって言うか?」

(ふーん。隼人さんも結構話してくれるようになったのね…)

堅くこもっていた『理由』はまだ、隼人も話してはくれないが、

お互いに解っていたので葉月はそこは聞き流す。

正月も結局…隼人は横浜に帰省せず…。

葉月とフランク一家と一緒に年を越したのだ。

『いいの?せめて…お母様のお墓参りぐらい…。』

写真を飾り始めた隼人にそう言ってみる。

『いいんだよ。写真を出したから…おふくろも解っているって…。』

隼人に似た黒髪のか細い女性。黒い瞳が大きい、色白の日本美女。

葉月は一目見て彼の母が素敵な女性だっただろうと思ったから余計に気になった。

でも…隼人は平然。

横須賀校にいる京介叔父にも『良く説得しなさい』の催促が暮れに何度もあった。

葉月の遠回しな説得で、隼人は京介叔父の催促に気が付いたのか…。

『葉月の立場が悪くならないよう、俺が親父に連絡するから口出しはしないでくれ』

最後にキツク言われて…それっきりだった。

それでも…自分の経験を含めて真一を心配してくれる…

その姿は本当に有り難いほか何もなかった。

だから…今でも、何も聞けないし、隼人が心を解くのを待っている。

それに…真一が葉月以上と言ってもいいほど隼人を信頼して受け入れている。

でも…葉月は今回のことで真一のことは…

『ロイ』にも『右京』にも任せる気はなかった。

葉月が頼れる兄たちを避けてでも一番頼りたいのは…

『黒猫の兄』

彼が、現れるのをジッと待っていた。

葉月の予想通り…。

真一に真実がばれても、彼は100パーセントの落胆はしない…。そう思っていた。

その通り…。

真一は母が死んだ原因を知って苦しみはしたようだが…。

ある新事実を知って、半分は心のバランスを保っている。

でも…その心のバランスを完全に立ち上げてくれる重要な男が現れない。

夏になっても。彼が現れなかったら…。

(しょうがないわ。右京兄様に相談する)

そう決めていた。

真一は、隼人が側にいることによってここでも心のバランスを保っているようだった。

「隼人さん…。」

彼がフランスから出てきてくれなかったら…どうなっていたか…。

真一の気の良い『パパ兄さん』になってくれていなかったら…どうなっていたか…。

葉月自身の仕事のこともそうだったが…

隼人は葉月の予想を上回るほど…プライベートでも良く尽くしてくれている。

そんな彼の素肌に抱きつくと、隼人も満足そうに微笑んで葉月の栗毛を撫でてくれる。

もう…この男以外に自分の身体を触らせる気はない。

ないのだけれど…。

葉月の身体には…あの男の手が染みついているような気がしてならない。

「何かあったら…何でも言えよ?一人で悩まれるのはイヤだ。」

隼人の優しい言葉。

彼は一緒に住むようになると『大切にする』と言った言葉通り

本当に葉月を大切に愛してくれていた。

身体は素直に反応するし。

言葉も素直にこぼれる。

笑顔も彼のためなら自然にこぼれる。

変な警戒心は、彼の優しい言葉が一つ一つ…解いてくれる…。

でも…一つだけ…。

隼人が開けられない扉。

身体が最高潮に反応することもそうだが、警戒心を『家族以外に解く』これもそうだ。

隼人はその扉がなかなか開かないジレンマに襲われることがあるようだ。

『俺は…焦らないよ』

そんな風に…余裕気に笑ってくれるが、

葉月の方が焦ってしまう。

『焦ることもないよ』

そうも言ってくれるが…やっぱり気にする。

彼が優しく気遣ってくれるのに…やっぱり堅い扉は隼人には開けられない。

葉月が開けたくても…義理兄の方がうわ手で、扉の後ろに立ちはだかっている。

自分の体の中を何人かの男が通り過ぎていった。

でも、誰一人として…葉月を『快楽』に連れていったことはなかった。

『快楽』を与えてくれるのがすべてではないが…心も全開には開かなかった。

ただ一人を除いては…。

『家族外の男』に体を許しても、すべてをさらけ出せない

トラウマが輪をかける堅い扉の錠。

隼人はその錠が何処にあるか解っている初めての男だった。

錠を見つけているのに…開ける方法も、鍵も見つけているのに…

手に掛けているのにそれが開けられないからジレンマに襲われている。

そのジレンマを乗り越えてくれなかったら…。

義理兄が言うように…

『いずれ…離れていく…』

そうなのだろう…。何時もと同じ繰り返し。

葉月の身体はまた…黒猫の兄の所に逆戻り。

『お願い!私を離さないで…。何処か連れていって!』

隼人に対して…葉月の方もそんなジレンマがある。

「ほら…また考えている。」

真一を気にする問いかけに黙り込んでいる葉月に

隼人はまた…不満そうに葉月を身体の中に抱きしめる。

「シンちゃん…今は大丈夫みたいだから…」

「大丈夫なフリ…って事も。」

「………。もう少ししたら…右京兄様に相談する。」

「それがいい。」

こんなに甥っ子を心配してくれる優しい笑顔の彼。

同じ母の温もりを知らないで育った同志。

葉月以上に…真一と隼人は男同士とあって…。

何か葉月が見えない絆で結ばれているような気がした。

『ちょっと張り切りすぎた。』

そんな冗談を言って隼人は珍しく葉月より先に寝付いてしまった。

一度目が覚めたので、葉月は少し寝付けなかった。

隣にいる隼人をまたいで、スリップ一枚でベッドを降りる。

そして…ロザリオが飾ってあるジュエリーボックスの前へ。

ガラス戸を開けて…引き出しになっている収納ケースを開けてみる。

『ブルガリ』『ティファニー』『カルティエ』『ディオール』『シャネル』

自分では絶対に買えない何千万もするという『モナコの華』

その時計がズラリと並んでいるケースを眺めた。

一度として…その時計は腕に付けたことがない。

真一と一緒。

大切に閉まっているだけ。

他にもあった…。ピアスもそうだ。

『宝の持ち腐れだな。これならどうだ?』

義理兄がくれた物で、唯一身につけているパールのピアス。

小粒だけれどもすこし…青みがかっているのがお気に入りだった。

その収納ケースの下に敷かれているビロードを葉月はそっとはがす。

そこから何枚か…紙の切れ端。

『姉の日記』だった。

彼女が一番恨み辛みをつづったページは

黒猫の兄と…真・兄に託されて葉月が持っていた。

右京も知っている。

その切れ端を…こんな所に隠していたのに…。

真一の様子が変化した後、確認すると。

見事に触られた痕跡があって…。

『見つけられた!』と愕然としたのだ。

あれほど…。

右京に『気を付けろよ!』と言われていたのに…。

でも。ロイと違って右京は『葉月派』だった。

『ばれることもあるだろうさ。ばれちゃ困るが…ばれても良いと思うことも…』

葉月と同じで右京も『ばれて欲しくない…。でも…ばれて欲しいような』

そんな葛藤を一緒に持っていた味方だった。

『死んだ真も…きっと俺達と同じ想いだと思う。

いつかは…ジュンの為にってなぁ…。当の本人はいつものひねくれだけどな。』

鎌倉で…右京は、夜空にヴァイオリンのボゥで弧を描いて…

真が好きだった曲を…何時も哀しそうに演奏しながら葉月にそう言う。

葉月もそう思う…。

それもそのはず…。

右京と黒猫の兄は…同い年。

幼なじみで親友だったから…。

だから、従兄の右京も今は葉月の相談をせっつかずに、

従妹が残した可愛い義理甥っ子を心配しつつも…ジッと耐えているのだ。

彼が現れるまで…。