51.あなたの印

『カチャ…』

ドアノブを壊れそうなほど回していた隼人の耳に小さな音が届いた。

『………』

隼人は一瞬ためらう。もしかしたら…認めたくない姿を見ることになるかもと…。

「どうした?サワムラ…??」

隼人の背後で固唾を飲んでいたデイブがそっと隼人の隣に近づいてくる。

「葉月?」

隼人はそっと…鉄扉を少しだけ開けて…隙間を覗いた。

『!!』

細い隙間から隼人が見た物…。

長い栗毛が乱れて…下着を荒らされた葉月がジッと…

警戒したような冷たい眼差しで、いつも以上の無表情で隼人を見つめたのだ。

『………!!』

隼人はその姿に大きなショックを受けながらも、

身体は勝手にドアを開けてためらうことなく『男子禁制』の部屋に入り込んでいた。

「葉月!」

隼人はその姿を誰にも見られたくないと本能的に扉を閉めて鍵をかけてしまっていた。

そして…隼人が立っている足元でうごめく影…。

何故か…何が起きたか…。

荒れた姿の葉月以上にぐったりしている山本が視界に入る。

(この野郎!!)

襟首をつかんで、殴り飛ばしたい気持ちが瞬間沸騰!

しかし…そんな気持ちより勝っていたのは…。

「大丈夫か?葉月…。こっちにおいで?」

隼人にすら距離を置いて後ずさりをする葉月に手をさしのべていた。

葉月は長い栗毛の中うつむいて…引きちぎられた肩紐を手で押さえていた。

「葉月…!」

隼人はたまらなくなって、葉月の元に後先考えずに大股で近づく。

葉月はまた半歩。後ずさりをしたが逃げはせずに

隼人の素早い動きに捕まる。

「良かった…。大丈夫か?」

本当は手遅れだったかも…そう頭にかすめつつも…

何もなかったようにして隼人は葉月を抱きしめた。

油まみれの赤い服に葉月がやっと頬を埋めた。

「………」

隼人がいつもそうしているように栗毛をいたわるように撫でると…

「…………」

葉月の肩が小刻みに震え、そして…隼人の胸元で小さな唇も震い始めたのだ。

(やっぱり!怖かったに違いない!)

隼人は再びショックを受けて葉月をきつく抱きしめる。

『パパ…』

(パパ!?)

一瞬力が『ガタ!』と抜けるような一言を聞いてしまった。

(おい?『隼人さん』じゃないのかよ?)

でも…葉月はか細い息だけの声でずっと…『パパ』と呟いていた。

小さな子供のように隼人の胸元に両手でしがみつき、

隼人の黒いアンダーシャツをきつく握りしめている。

そして、側にいる隼人にしか聞こえないような細い声でずっとそういっているのだ。

肩も唇も震えている葉月の足がすくんで、

徐々に隼人の支えなしでは立つことが出来ないほど葉月の力がなえていくのが伝わってくる。

『大丈夫だよ…。ね?』

隼人は『仕方ないなぁ…もう…』と思いながら涙を流さずに怯えている葉月を慰める。

隼人の背後で『ク…』と笑いを漏らす声がした。

「やっぱりな…。お前と嬢ちゃんは『出来ていた』ってことかよ。

道理で。お前が冷たい振りしてもムキになってお嬢ちゃんを遠ざけていたわけだ。」

『ははは!!』

今度こそ…最高潮に『瞬間沸騰!』

力をなくす葉月を胸から構わず引き離して隼人は

立てもしない山本に向かってゆく。

葉月はペタリ…と地面に座り込んでしまった。

「当たり前だろ!俺は…『御園葉月の側近』だ!!」

座り込んでいる山本を力任せに隼人はつかみ上げる。

鉄扉に力一杯、細い山本を押さえつけて拳を握った。

『ふ…』

山本が一瞬、うつむいて微笑み…真っ直ぐに隼人を見つめる。何も抵抗をしない。

『……………』

殴られることを覚悟している眼差しだと隼人は肩に振りかざした拳を一瞬止めてしまった…。

だが…

(遠慮はいらないって事だな!!)

今度はためらわずに力の限り…山本の頬に向けて拳を振り落とした。

『う!』

山本がうめき声を上げてまた床に倒れ込む。

今度こそ…彼は立ち上がろうとしなかった。

こんな事で…今更拳を振り落としたって手遅れだ。

隼人はそう思って…しびれる拳を悔しい気持ちで見つめる。

ほんとうなら…葉月があんな姿になる前に…使いたかった…。

隼人は拳を見つめて…背後で力無く座り込んでうつむいている葉月を見つめた。

そうするとまた怒りがこみ上げてくる!

山本の襟首をつかんで隼人はまた力一杯彼を引きずる。

ドアを開けてゴミでも捨てるかのように…

外でオロオロしているデイブに向かって放り投げてドアをまた閉める。

「葉月…。」

隼人が床に座り込んでもう一度、葉月を抱きしめると…

『この!バッッカヤロウ!!!』

デイブの声と共に…鉄扉が外から『ガーン』と大きい音を立てる。

「もう大丈夫だよ。だから…いつもの葉月に戻ってくれよ!!」

くったりとうつむいている葉月を隼人は揺する。

魂が抜けてしまったような葉月からは何も反応は返ってこなかった。

隼人は一人置いて行かれた気持ちになった。

そう…葉月が隼人に黙ってフランスを出ていったときのような…あの気持ちだった。

いつも何か隼人の気づかないところで悩んでいたり考え込んでいたり…。

そんな葉月が最近ようやっと隼人に心を開き始めていたのに

一気にそれが逆戻り。

いや。それ以上に状況は最悪になったかも知れないと隼人は怯えた。

山本をやりこめた腕前なんかよりも…

その後にやってきた葉月のこの弱々しい姿なんか…

隼人が知っている『ウサギ』ではなかった。

まだ、涙を流して泣き叫ばれる方がましだった。

涙も流さない。声も出さない。何も動かない。

もう震えも止まっているようだが何かに葉月を奪われた気になった。

そう…『トラウマ』だ。

葉月のトラウマ。それが今彼女を支配している。

怒りも怯えも悲しみも…すべて出し尽くした…そんな風に隼人には見える。

だから葉月は今。何も表現しようとしなくなったのだろうか??

もう。隼人にも…あんなに笑ったりムキになったり…泣いたり。落ち込んだり…。

そんなありとあらゆる葉月が…この数ヶ月見てきた葉月はもう見せてくれないのか!?

(お前は…本当は…)

葉月の肩を揺すっていた隼人は…その手を離し

また拳を力一杯悔し紛れに握りつぶした。

そして…うつむく顔が見えない葉月のつむじを見下ろして…息を吸う。

「葉月…。しっかりしろ!!」

隼人の平手が葉月の頬を直撃!!

葉月の栗毛がハラリと叩かれた方になびいた。

ぐったりしていた葉月が隼人の力に任されてそのまま床に叩き付けられ倒れる。

でも隼人は構わずに葉月の片腕を引き上げ無理矢理、起こし上げる。

「俺が選んだ中佐はコレぐらいの事じゃ、へこたれないんだよ!

あんな薄汚い男にちょっとやり込められたぐらいで、こんなに壊れるなんて心外だぜ!!

どうしたんだよ!お前が抱えている『戦わないと生きていけない意志』って

こんなモンだったのかよ!!あんな男に負けていいのかよ!じゃじゃ馬!!」

本当なら…こんな…葉月が抱えている『漆黒の意志』は揺さぶりたくない。

だが…もう一言…心に決して隼人は葉月に投げつける。

『姉さんが泣くぞ!!』

『オチビ!皐月が泣くぞ!それでいいのか!!

あんなチンケな奴らに屈するのか?それでお前は救われるのか!!』

葉月の耳に…そんな声がこだました。

『姉さんが泣くぞ!』

その声とシンクロした。

葉月は頬を押さえてそっと…隼人を見上げる。

やっと反応した葉月を隼人の黒い瞳が強く光って見下ろしていた。

「隼人さん…」

そっと囁くと…知らない間に頬を押さえている手のひらに熱い感触。

『涙』だった。

「どうした?怖かったのかよ?悔しかったのかよ??」

まだ、厳しい眼差しをした隼人に妙に強く追求されるように尋ねられる。

「隼人…さ…ん」

どんな気持ちかは言葉では言い表せなかった。

でも…その言葉しか今は出せない。

涙が溢れるように頬を伝い自分が

胸がはち切れそうなまま、感じるまま泣いていると葉月は感じた。

涙で濡れきった頬にそっと隼人の手が添えられて

なんだか胸の堰を切るような口づけがそっと殴られた頬に降りてくる。

栗毛を撫でるいつもの手。

その手がふと…山本が吸い付いて離れなかった首でとまり…

隼人がジッと見つめているのが葉月には解った。

山本が残した口づけの跡…。それが首に存在していることを葉月は初めて知る。

「…………」

隼人が眉間に寄せたしわ。

触られた女。汚された女。そう感じられている。

葉月は…『いずれは…お前の元を去っていく。真剣になるなら覚悟しておけ』

黒猫の兄が隼人に恋心を抱き始めたときそう忠告をしていったのを思い出す。

だから…ドアをすぐに開けて…隼人の胸に飛び込むことが出来なかった。

だから…泣きつくこともできなかった。でも…これだけは言わないと…

「大丈夫…危なかったけど。何にもされていないし…」

でも山本に触られただけでも隼人は悔しそうにしている。

それ以上は怖くて言えなかった…。ビデオのことも…。

この男も去ってゆく…絶望的な思いで葉月が再びうつむくと…。

隼人の両手が胸元のレエスにさしかかる。

「隼人さん??」

ふと見上げると…葉月が見たこともない形相の彼がそこにいた。

さすがに『優しい男』と思っていた葉月もゾッとしたぐらいだ。

その瞬間に…隼人の手は力一杯、葉月のスリップドレスを左右に引き裂いていた。

まさか…信じていた男にこんな事をされるなんて!

肌を隠していた、たった一枚のスリップドレスは

隼人の腕で宙に投げ出されて一糸まとわぬ全裸にされてしまった。

もう…何度も彼に見せた裸。

なのに葉月の身体は硬直した。しかし…

「あんな男が触ったものなんか!!」

『捨ててしまえ!』

隼人がそう言った言葉で葉月の中の恐怖心は何処か…スッと消えた。

おまけにその激しい隼人に全裸のまま抱き上げられる…。

『は…隼人さん??』

戸惑いながら妙に男らしい隼人の腕に落ちないようしがみつくと…

彼が向かうのは、また…『シャワールーム』

「いや…どうしたの!?」

今度は隼人の方が我を忘れているようだった。

葉月をシャワールームの奥に押し込めて隼人は作業着のまま一緒に入ってくる。

何をされるのかと葉月もまた怯えたが今度は戸惑う暇もなく

隼人がシャワーを手にしてコックをひねった。

隼人の赤い作業着にお構いなくお湯が当たる。

性的な事をされると怯えていたのに…隼人が葉月に向かって始めたことは…。

「ジッとしてろ!!」

葉月の白い肌にお湯を当て、大きな手で身体中を洗い始めたのだ。

多少乱暴な手つきだった。だが…葉月には勇ましい父親を思わす手だった。

いつも冷静で落ち着いた彼が我を忘れたように葉月の肌をこする姿に

葉月はただ・ただ…驚いて眺めているだけだった。

しかし…隼人のメンテをすましたばかりの汚れた手から

黒い油が滲み出たのか、葉月の白い肌を逆に汚し始めた。

白い乳房に隼人の指の筋がスッと残り、葉月の太ももに達した時…。

隼人の手がやっと止まった。

「くそ…。」

隼人がガックリ…葉月の足元にひざまずいて、うずくまってしまった。

彼の手からシャワーのホースは手放され、タイルの上に落とされた。

「綺麗にしようと思っただけなのに…逆に汚した…。

もっと早く…側にいたかったのに…何もできなかった…。」

初めて聞く…頼りがいある男の弱々しい声。

それで充分…。

葉月の瞳にまた熱い涙がこみ上げてきた。

葉月は情けなくうずくまる隼人の側にひざまずく。

濡れてしまった彼の黒髪にそっと…白い指を通してみる。

「私の…機体の油?」

葉月の柔らかい声に誘われて隼人はそっと…顔を上げる。

葉月は優しい微笑みを浮かべて隼人が付けた油の跡をそっと指でなぞっていた。

「隼人さんの『印』。」

「……葉月。」

葉月のガラス玉の瞳が…熱く潤んで揺らめき、ピンク色の唇が急に引き締まった。

「もっと…付けて。あなたの『印』」

暫くお互いの視線が強く絡み合った。ほどけることはない。

静かな沈黙の中。流しっぱなしのシャワーの音が響く。

隼人が赴くまま…葉月の頬に触れるとそっと…彼女が長いまつげを伏せた。

そっと触れ合ったお互いの唇が震えているように感じた。

『緊張』からくる震えではなかった。

胸の高ぶりを押さえた『震え』だった。

「いっぱい付けて…私の身体中に!」

「葉月……!!」

熱い口づけ…激しく鳴りやまない音。

暫く二人の唇は離れることはなかった…。