―◆・◆ 裸婦 ◆・◆―

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タエコと雪子 5

 

 雪国の女もいいぞ。
 友人で道産子の彼が言ったとおりなのか。確かに彼女の肌は今まで見てきたモデルの中では特に色白。若さははないが、そのぶんとても柔らかい。こうして触れていると、そのまま眠ってしまいそうな錯覚に陥る。多恵子の臍の上に口づけ、先日そうしたように、再び謙は彼女の乳房の端に、そっと唇を押した。
 そうだった。この匂いに柔らかさだけを頼りにして、ただそれだけを頼りにして描こうと思っていたはずなんだ――。確かなる隔たりがあっても、必ずその通りの肌を描いてやろうとあの時は。
 なのに今は、どうしてこうなってしまったのだろうか。
 何故、このように。ついにモデルの肌に埋もれたいと欲してしまったのだろうか。
 やがて、その唇が彼女の赤い胸先に触れる。きゅっと閉じられた多恵子の口元を謙は確かめる。決して他人には聞かせてはならないと彼女が堪え、喉の奥に押しやろうとしているその声。だが僅かでも淫らな声が漏れ、小さく謙の耳に届く。我慢をしているその顔も眺めた。眉根を寄せ、きつく目を閉じ、上を見上げている。謙が何をしているのか、どう触れているのかを見ようとはしてくれていない。
 しかし、そんな多恵子の手が、胸もとで戯れている謙の頭を静かに包み込んできた。
「先生。私の顔、見ている」
 甘い疼きに捕らわれてしまう女の自分を見抜かれる。それを止めさせたかったのか。多恵子は謙の黒髪の頭をさらに、乳房と乳房の間へと抱き込んでしまう。柔らかなそこからは、あの時香った緑の匂いがし、何故か逆に気持ちが落ち着いて来てしまった謙。それでも指先は、艶やかに突き出している丸みを掴まずにはいれらない。
「見たよ。艶絵の顔をしている」
 女が男に乱され、官能に振り乱れる顔ばかり描いた謙の個人的なコレクション。決してキャンパスには描くことはない、謙の遊びを詰めた作品集。あのスケッチブックに描き重ねた『通りすがりの女達』の顔と、多恵子の今の顔は近づきつつあった。
「本当の私……って」
 男がじっくりと動かす指先に合わせ、多恵子の息もはあはあと掠れ始める。それを眺めて燃えぬ男がどこにいようか。突っ立たせたままでいる彼女の手首をひっ掴み、無理矢理に同じ目線へ来るよう床に跪かせた。
 多恵子の顔と謙の顔が間近で向き合う。鼻先と鼻先という僅かな隙間に、そっと漏れる熱い息が交わる。冬の緩く鈍い明るさを反射する床の上、密やかに相手の黒目を見つめあった。彼女の黒目は確かに謙を映していた。スケッチをしていた時に何度も部分描きをしたころんとした黒目と久しぶりに再会した気持ちになる。謙の中で鈍感に埋もれていた愛おしさが広がった。
 頬を包むと、多恵子が笑ってくれた。そこは労るような愛情を含んだ男の手を、真っ直ぐに受け止めてくれていた。今度は多恵子が、謙の手に優しく触れる。男と化した指先で、その瞳を、頬を、鼻筋を、唇をに触れ、最後に顎先に触る。そっと上に向けると多恵子もなんの躊躇いもなく目を閉じてくれた。
 迷いのない唇の交わりが、アトリエの片隅だけで、密やかな音を立てていた。男が構わずに吸う音、吸われた女の弱しい受け答え。それでも最後に深く絡み合うと、互いの指先は相手の身体を自分の肌へときつく抱き寄せていく。
 男は女の乱れた黒髪を撫で回し、女はそれに乱れて男の背にしがみつく。
 こんな顔、こんな顔を持ち合わせ、でも彼女は、ありきたりな顔で毎日を過ごしている。特別でもなんでもない。きっと誰もがそうなんだ。僕も。多恵子も。多恵子の彼も。そして、別れて置き去りにしてしまった僕の『沙織』も。モデルにはならなかった通りすがりの恋人達も。そして、誇り高い日本海の旅館女将に、美しくも悲しげだった若い夫人モデル。誰もが誰もがその肌と裸体の向こうでは『生々しい』。
 男の荒れ狂う指先と唇に燃える女も。女の柔肌に我を忘れて貪る男も。熱く湿った女の吐息に胸に迫る物に押し切られそうな男の手の動き。走り出してしまった男の手は彼女の乳房を愛でるだけでなく、まろやかな腰の線を堪能しならが撫で降り、すべらかな小尻を割り開くほどに握りしめ抱き寄せていた。強引な男の愛撫に、肌を与えてしまった女も儚い声で小さく呻いている。柔らかな肌をしっとりと火照らせ、甘い匂いで男を無意識に誘っているくせに、小丸をいくつも描く男の指先に愛し方に「いや」と言う。なのに抗うことを忘れたのか、彼女は密やかに濡れ男の指先も濡らした。
 それを一部始終、謙は見つめた。眺めた。そして手先で狂わせた。震える多恵子の身体を己の顔に押しつけ、逃がさなかった。そして多恵子も悶えても暴れない。――ということは『それでもいいのか』。いつかは身体は反応しても理性で押さえ込んだが、今日は違う。ジーンズのベルトに指先が触れたら、男の欲情が堰を切ったように溢れだし、多恵子をノンストップで呑み込むだろう。それでもいいか。この女は特別だ。そうだ、抱きたいんだ。それだって『本当の僕』じゃないか。などと、流石にそこでは謙も自問し止まってしまった。
 頬を熱くして息をあげている多恵子の胸元が揺れている。その胸先が何度も謙の頬に触れ、隠微に誘っているよう……。そんな多恵子もすっかり『その気』なんだろう。その顔であの彼に何年も愛されてきたのだろう。それでも彼女はついに、本当の意味での女として……。そんな多恵子を見て『彼女もいいんだ』と言い分けているように眺めていたら、そのころんとした目が静か開いて謙を見下ろした。
 息切らし、赤い頬の多恵子。男の手先で熱く悶え濡れた女の顔。なのにその目を見て謙は愕然とした。
「描いて、先生」
 目はソファーから謙を観ている目と同じだった。僅かに冷めている。一欠片だけ溶け切れていない破片を謙は見つけてしまった。
「本当の私を描きたいんでしょ。先生、何でも良いから描いて」
「ど、どうして」
 徐々にその眼の色に、謙は恐れを抱いた。
「カンバスでなくても良いです。先生の、通りすがりの恋人達と同じスケッチブックでも良い。綺麗な私でなくても良い、淫らでも良い。先生、先生が見て知った私を描いて」
 戸惑っていると、それまで謙の腕の中でとろけきっていたはずの女に腕の囲いを解かれようとしていた。未練がましい男の手がそれを拒もうとしても、彼女は優しい力でも頑固に静かに解いてしまった。
 彼女に放られた謙は床に尻を着いてしまい、そのまま男の力が抜けていく。多恵子はまた全裸で堂々と謙の前を横切っていく。
 彼女が向かったのは、謙が道具をまとめている画材のカウンター。そこの棚に放ってしまっていた艶絵のスケッチブックを多恵子が小脇に抱えて持ってくる。
 それを目の前に突き出されていた。
「つまらない女、駄目な女、いけない女。本当はいやらしい女。綺麗じゃないくせに、何も出来ないくせに、贅沢で高望みの女。どんな私でもいいです。先生が描くなら、私……」
 多恵子のつぶらな黒目がひたすら謙を見る。呆けるまま、力無く多恵子を見上げた。
 ――男と女としての僕と貴女は、いったいなんなのか。
「僕は、多恵子を」
 抱きたかったんだけれど。
 そう言いたくて、でも多恵子の黒いばかりで色を変えない目が言わせてくれなかった。
「先生が描くなら、どんなでも」
 描く為なら、なんでも? それはどういう意味なのか。僕が描きたいと言えば、貴女は裸でいや女として裸体を預けてくれるのか。そんな決意なのか。モデルだからそれも厭わない? 
 モデルだから? だんだんと訳がわからなくなってきた。
 だが多恵子は脱力したまま座り込んでいる謙の前へ、また跪き戻ってきた。そして目の前にスケッチブックと鉛筆を差し出される。
「先生、芸術的でなくてもいいんです。先生と私だけの作品でもいいんです」
 彼女がそこでやっと、泣きそうな顔に崩れて言った。
「それが最後の絵になっても……いいです」
 最後? 考えたこともないことを彼女が言って、謙は呆然とした。
 貴女と僕の最後? 当たり前だがいつかはそれがくると謙だって漠然とわかっていたつもりでも。でも今はまだそんなことはずっと先だと。
 彼女とこの閉ざされた空間だけで視線を交わし合って、ずっと。それはこれからももう暫くは。だがその暫くはいつなのか、謙は考えたことがない。それに初めて気が付かされた。
 僕たちの最後ってなんだ。どういうことなんだ。どうしたらいいんだ。初めて思った。
 最後の絵。真の女に触れ、描けなくなった画家が、どうでもいいから描いたスケッチが最後の別れの絵?
 差し出されているスケッチブックを見つめ、
「そんな絵を最後に多恵子と別れるだなんて、とんでもない」
 謙はついにそれを彼女の手から取っていた。
 数々の恋人達を描いてきた年季の入ったスケッチは、表紙の角がすり切れている。開くと懐かしい彼女達が色っぽい目つきで謙をまた誘っていた。だがここ数年、このスケッチに描かれる女は現れなかった。それだけ、恋にも疲れ、男としての意欲も薄れ……。ページをめくっていると、めくる手に女の手がついてきた。
「札幌の通りすがりの女……。私もそんな女」
 謙の隣に多恵子が寄り添っている。いつもの素肌で裸体で。その手で、少し前に『寝ないのにここに描かれた女』を指さした。偶然の婦人を描いた後、一人で肌を火照らせていた彼女を描いたあれだった。
「またここに、今日の私を」
 どうしても僕に描かせたいのか。
 男女の熱愛ムードをすっかり壊されてしまい、謙はとうとうため息を吐いて鉛筆を手にしてしまう。だがスケッチブックは閉じた。
「これには描かない」
 立ち上がり、今度は謙がカウンターに向かった。せっかく作ったのに、ちょっと欲を出してカンバスに向かった為忘れてしまった「タエコ」のスケッチブックを久しぶりに。
「多恵子のことは、ここにしか描かないよ」
彼女専用のスケッチブックを手にして、床に座り込んでいる多恵子の傍に謙も腰を降ろした。
 全裸でぺったりと座り、くしゃくしゃになった黒髪のまま、毒気のないあどけなさで謙を見つめ返してくる。目が合っても、多恵子はまったく動じていない。自分は描かれると信じ切っているその眼差しに負けた。
「寝そべってくれるかな」
 少しばかり怪訝そうだったが、多恵子は言われたとおりになにもないフローリングの上に仰向けに寝そべる。
 一波乱の後とは言え、それはあまりにも無防備だろと嫌味の一つでもいいたくなるほど、その裸体を謙に晒している姿に苦笑いするしかなかった。
 だが、謙もそのまま多恵子の直ぐ傍に、スケッチブック片手に寝そべった。
 まるで二人揃ってベッドに並んで眠るかのような体勢になり、やっと多恵子がはっと我に返った顔になるが、謙がすかさずスケッチブックを開いたので安堵したようだった。仰向けに裸体を投げ出した女の隣で、男は、いや……画家は彼女の傍に身体を向け、鉛筆を握った。
「いつもどおりに僕を見てくれ。タエコ、こっちだ」
 カンバスに自分の好みに飾った女性を盲目に描いていた時のあの奇妙なテンション。「ぼくはここにいるんだ」「こっちだ。タエコ」と変な疑似空間を作り上げていた。でも今は違う。彼女を見つめて、心から誘う。静かに誘う。
 誘われた多恵子も寝そべっている身体を同じように横に向け、謙の身体に寄り添ってくれる。肌と肌の僅かな隙間に熱気がこもり、互いの体温を感じ合う。そのまま多恵子は自分の腕を枕に、手を伸ばし、そのまま頭を置いて寝そべる。いつもソファーで見せてくれたポーズによく似ていたが、それはもう……。モデルが画家の為に作り出したものではなく、多恵子そのもの、自然な姿だと謙にも直ぐに解った。抱き合うはずだった二人の、スケッチブックを挟んでの、体温を伝え合う時間。ばさばさになった黒髪の中に、謙が見つけた黒い目。静かな表情だけの女。その彼女が寄り添ってくれる姿を謙は描き始める。
 その目で多恵子が気怠そうに謙を見る。男と女の間に湧き起こったことも、もうこの歳になると面倒なのよ。男に思い切り抱かれたい願望もあるけど、『いろいろあって』、簡単にはその気になれないのよ。情熱だけで突っ走るだなんて、それひとつで走り出せても『情熱』のまわりに沢山の見知ったことがいっぱいひっついてきて重くて走れなくなるのよ。たったそれだけの為に失う物を考えると、どうしてか『たったそれっぽっちのこと』と思ってしまうの。――そんな女の声が聞こえてきそうで、謙は固まる。タエコの目線が伝えるもの。彼女が一欠片だけ残していたものがなんだったのか知ったような気にさせられた。
 見つめ合いながらも、会話はなかった。ひたすら彼女の線を追う男と、ひたすら寄り添って男の目を見てくれる女。息づかいさえ、二人は閉じこめる。音がない二次元の世界へ。それが二人が目指した世界だったのだろうか。
 しかし、ぴったりと寄り添う身体と身体のその先。つま先が触れ合っていた。相手の足の甲を指先でそっと撫でる……。そうしたのは多恵子からで、それはいつも彼女が寄り添う男性にしてきた『仕草』なんだと謙は思った。
 だけれど。そう触れあって暫く。どうしてか謙の心が徐々に『三浦』に戻っていくのを感じさせた。彼女になだめられているようで。それでいて彼女の足の甲に返事をするように撫で返していた謙は、指先に滲む暖かな感触を懐かしく思ったのだ。
 親しい女性とそうして眠る夜を謙は思い出していた。足先を絡めて眠った幾つかの夜。
 多恵子の無意識の仕草は、謙の心に忘れた安らぎを思い出させ、またその反面で、忘れたはずのどうしようもない痛みと切なさを思い出させていた。

 

 

 

Update/2009.10.22
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