-- 緋花の家 -- 
 
* どの花にも毒はある *

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18.花は蘇る

 

「正樹さん。早く一緒に逃げて。貴方、こんなところにいては駄目よ!」

 緋美子は叫んだ。
 貴方は火と一緒になっては駄目。側に火があると貴方は飛び込みたくなるのだから、この状況はまずいわ。緋美子は心で叫んだ。
 だが自分も危ない。黒煙が上の階へと繋がっている階段からもうもうと降り注いできて、咳が出てきた。
 そこの壁にもたれて咳をしていると、ついに正樹が駆け寄ってきた。

「まさか。このエレベーターで来たのか」

 緋美子はこっくりと頷く。

「馬鹿か。それでも消防官の女房か! 何故、俺を追ってきたんだ」
「……たから、」

 咳き込む緋美子の口元に、正樹が耳を寄せる。そして緋美子はそっと囁いた。

「見えたから。貴方がこのままどこかに消えてしまいそうに見えたから――」

 そして緋美子はついに心の奥底に隠していた本音を呟いてしまう。

「まだ生きていて。いつか、いつか、大きくなった美紅をみてあげて――」

 その言葉に正樹がとても驚いた顔をした。そんな彼がふと微笑み、そして初めて緋美子は正樹の腕の中に柔らかに抱きしめられていた。
 本当に何も起きなかった。やはり私達のいかがわしい縁は切れたのだ。そんなふうに正樹が強く緋美子を抱きしめるひととき。
 だが穏やかなひとときは一瞬。一転して正樹に強引に階段まで連れて行かれる。上へ行く階段からは、もう、火がちらちらとこちらに広がってきているのが見えた。――「さあ。君もここから」、火が目の前に迫ってきているから、このまま正樹に追い返されると緋美子は思ったのだ。なんとか貴方も一緒にと叫ぼうと思ったのだが。ふと疲れたように微笑む正樹がいる――。

「馬鹿だな。いや、やはり君も赤い色にやられているんだ」

 その眼差しに緋美子の身を案じる優しさは宿っていなかった。
 正樹の冷笑。呆れた顔で緋美子を見下ろし、ハンカチを取り出したかと思うをそれで緋美子の口を塞いでしまう。それがものすごい力。まるで息を止められるかのような勢いに、緋美子はもがいた。

「俺を一人で死なせてくれたなら、それで君は今まで通りだったはずだ。本当に馬鹿だな君は」

 ものすごい力で口を塞がれ、緋美子は咳き込みながら正樹を振り払おうとした。

「な、なにするの、早く一緒に逃げて!」
「何を今更。今、ここまで、俺を感だけで捜し当てたそのインスピレーション、俺たちが如何に引き合ってしまう『絶対的つがい』であるか、見事に証明しているじゃないか」

 変貌した彼が叫ぶ。

「あれから孤独だったんだよ。君と違って俺は孤独だったんだよ。分からないだろうな、君に孤独だなんて。君は娘を生んで、なおかつ家族もある。そして俺の妹ともいつまでも仲むつまじく」

 そんな正樹の目を見て、緋美子は凍った。
 あの、あの禁断の一夜の『獣の目』で緋美子を物欲しそうに見ていたからだ。

「いろいろと結婚の話ももらった。それはそれはもったいないほど上層部のお嬢様とかね。ただ、どの女性も満足にさせてやれなかった。もちろん、身体のほう。元通りにはならなかった。それが俺の、君を奪った罰だったかのように。そう俺はもう、仕事しかない、ふぬけた雄として生きていくしかないのさ。鳴海という雄に俺のあるはずだった世界をのっとられてしまったんだよ――」

 抱きついて離れない正樹を緋美子は咳き込みながら振り払おうとしたが、元は鍛えていた男の力では無理だった。

「放して。私は帰るの――。子供達と拓真のところに。貴方も広島に帰って活躍するのよ!」

 そう叫ぶと、正樹が背中に乗っかるかのように緋美子の上に重くのしかかってきた。

 「緋美子、行かないでくれ! 緋美子……もう、駄目だ。俺と一緒に……俺と一緒に」

 いつかのように彼に抱き上げられてしまう。
 そんな正樹が喜びに満ちた目で見つめていたのは、もう目の前に迫っている火。階段を下りてくる火。

 緋美子の震えが止まった。
 不思議だった。何故、この人と火を見て震えが止まってしまったのか。

 時折、上階から奇声が聞こえてくる。例えようのない人の叫び声だ。それはもう悲惨な響き。それだけ上の階はもう火の中に飲まれているという意味。炎に巻かれて逃げ遅れた人々の叫び。それが緋美子と正樹のすぐ側に近づいてきているのだ。

「孤独に死ぬかと思ったけれど、やはり俺と緋美子は生まれた時からこうなる運命だったんだな。最高だ」

 正樹はそう言うと緋美子を抱きかかえたまま、上階の火の中へと駆け出す。

 緋美子はいつの間にか声も出なくなって、しかも抵抗する力もなくなっていた。
 人生で最大の失敗をしたと緋美子の目には涙が浮かんでいた。

「い、いや。子供、子供達の所へ返して――。いや――!」

 しかしそれは声にはなっていない。ただ緋美子が口を大きくぱくぱくと動かしているだけの――。

 やがてその身体に黒煙がまとわりつき、ブラウスに火が燃え移り、そして彼の背中も真っ赤に燃え上がっている。
 でも彼は輝く笑顔で嬉しそうに笑っている。でも緋美子は出ない声で泣き叫ぶ。

 やはりこれが私達の運命だったのか。
 油断した。失敗した。ただただ、この人といつか人としての縁を戻したかった。出来れば、娘の美紅を通して。
 あの娘はあんな酷い獣的な運命から生まれ落ちたものではない。行き違いとすれ違いはあってもちゃんと『人の子』として生まれたのだと緋美子は感じたかった。

 どこか分からない通路で正樹が倒れた。
 緋美子は彼の身体の下敷きになる。
 もう頭が朦朧としていた。

「ここなら綺麗に死ねる。丸焼けにはならない。ああ、君と赤い火の中を駆けめぐったのは最高だったよ」

 身体の上に容赦なく乗っかっている正樹。彼が愛おしそうに緋美子の頬を撫で額を撫で、そして最後に柔らかい口づけを。

「……ま、たく、ま」

 ごめんなさい。許して。
 この人だと判った時から、近寄ってはいけなかったのだわ。
 二度と会わない。そして私は一生貴方についていくと誓ったのに――。
 拓真、私の夫。愛しているのよ、もっと私を愛して。拓真、拓真。
 そして貴方をもっともっと愛したいわ。ずうっと愛していたい。私と貴方の子供二人と一緒に笑っていたい。

 なのになんて馬鹿な妻、母親。
 緋美子は炎の中、最後の力を振り絞り、正樹の胸の下から手を伸ばした。

 

 許して、拓真。

 

 

 

 気がつくと白装束を着て、緋美子は彼岸花の道を歩いていた。
 肩から掛けている白い袋には、いつの間にか緋美子が大好きだったお菓子や果物、そして葉っぱのお金が沢山沢山入っている。
 その中にあったオレンジを手に取ってみると、どうしたことか娘の匂いがした。

「美紅?」

 振り返っても。同じように白い着物姿で額に三角布の額烏帽子をつけている人がぽつりぽつりと歩いていた。

「緋美子」

 その声に今度は歩いていた先へと振り戻る。
 そこには同じ格好をした正樹がいた。

「なにをしているんだ。また、はぐれてしまうだろう」
「そうですね。もう、懲り懲りです」

 緋美子は笑って、静かに微笑んでいる彼の元へと歩き始める。
 彼の背には大きな川が。何度も見たことがある彼岸花の川。
 道の傍らには六地蔵。そこを緋美子が通り過ぎようとした時だった。

「まって、行かないで!」

 その声に再び来た道を振り返ると、そこには一人だけ洋服姿の黒髪の少女がいた。

「り、り……」

 もう誰だったか名前が出てこない――。
 他の旅人も、その少女を見て驚くばかり、緋美子へと視線が集まった。
 だがその少女がワープでもするかのような速さで緋美子の目の前に飛んできた。

「まだそこを超えてはいけない人なのよ」

 少女は緋美子の相方に吠えている。
 こんな子だったかしら? と、緋美子は首を傾げた。
 そして相方の、伴侶の男が渋い顔になった。

「返しても。どこかで歪みが起きて、また誰かが傷つくだけだ。やっとみつけたから、これからは離れぬよう共にいようとしているのだ。もう迷惑はかけぬ」
「それは歪みじゃない。摂理よ」

 少女は毅然とした顔で、彼に向かっている。
 なにやら逞しい少女に緋美子は引き留められているようだった。
 六地蔵の向こうに行ってしまった男が、こちらへと草履の足を向け、そっと戻ってくる。

「彼女と私は違う。今度こそ彼女と一緒に去り、そしてまた転生し彼女と一緒になるのだよ。もう離れるものか」

 その微笑みはとても穏やかだった。
 緋美子はその微笑みへとすがりたくなるぐらいに――。彼に引き寄せられそうになったのだが。

「だったら、何故、何度も二人は彷徨っているの」

 凛々しい少女に言われ、六地蔵の向こうにいる男が一瞬たじろいだふうに見えた。
 その彼の顔に緋美子は泣きたくなる。そんな顔をしないで貴方。
 だが緋美子の腕はその逞しい少女にがっしりと掴まれてしまい、その六地蔵の向こうへと行くことが出来ない。

「行くわよ」
「誰?」

 彼女がにこりと笑う。

「そのうちに思い出すわよ」

 彼女がそう言った途端、緋美子はわけのわからない力でどこかに疾風のように連れて行かれる。
 白装束の旅人が、細長く細長く風に流されるように水に流れていくように通り過ぎていく。
 やがて真っ暗な闇の中を緋美子はただ少女に襟をひっぱられ、逞しく力強い彼女に連れ去られていく。

 ああ、またあの人を見失ってしまった。

 それにしても。彼女はなんて強い力を持っているのだろうか?

「もう少し頑張って。カズと美紅が泣いて待っている」

 彼女はある光の出口へくると、そう笑って手を振り消えてしまった。
 ちょっと。何故? 勝手に私をあの人から引き離しておいて何故? 何故、置いていくの! 待ちなさい!!
 そう手を伸ばしたら、自分の手に炎がまとわりついてきた。熱くて痛くて胸が苦しくなる……。そうだ。これは最近味わった痛み。

 緋美子は悲鳴を上げて飛び起きた。

「り、凛々子――」

 そこにはとても青ざめた顔の、兄がいた。
 彼は唇を震わせ、なにかこの世のものではないものでも見るかのように。

 

 やがて、この世で起きるはずのないことが起きていることに気がつく。
 自分はとても若々しい少女になっていた。しかも良く知っている少女に――。
 だが、彼女の身体はとても弱く。そして今にも消えてしまいそうな生命力しか残っていなかった。

 そして兄が言った。

「凛々子、お前は昨夜。息を引き取ったばかりだったはずだ」

 それにも驚愕する。
 そして思い出した。あの強い逞しい少女はまさか――!

 あそこではあんなに逞しく強い子だったのに?
 ここでは生きていけなかったのか?
 彼女がその為に、この身体を?

 緋美子は姪の【凛々子】の身体になっていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 ある夏の日。『凛々子』は、鳴海の叔父と一緒に特急列車に乗っていた。

「日本海だ」
「懐かしいわ。何年ぶり」

 叔父の声に、凛々子は笑顔をほころばせる。
 肩を寄り添わせて隣にいる叔父と一緒に、手元にある駅弁を和やかに食した。

 叔父は少しばかり痩せてしまったが、いつもの彼らしいファイトで元気で明るい笑顔を絶やさない。
 そして叔父は、凛々子を見ていつも微笑んでいる。

 やがて触れあっている肩と肩の先にある凛々子の小さな手を、その叔父が愛おしそうに握りしめた。

「帰ってきたな」
「ええ」

 少女と三十男。でも二人は肩を寄せ合い手を握りしめて、幸せそうに微笑んでいた。

 やがてその列車は故郷である砂丘の街に辿り着く。

 

 二人はそのままタクシーに乗り『高台にある薔薇の家まで』と告げる。
 するとタクシーの運転手は『ああ、長谷川さんのお宅でよろしいですか』と言った。
 それにも二人は微笑みあい、叔父の拓真が『はい』と答えた。

 薔薇の家は長谷川さんの家。
 十一年経って、あの家は早紀の家になったようだった。
 もう誰もそこにいた娘のことは思い出してはくれないのだろうか。凛々子はすこし泣きたくなる。

 生まれ故郷の街並みもだいぶ変わっていて、凛々子は目を見張りながら、元は自分達『正岡』の持ち家であった『薔薇の家』へと向かう。
 やがてタクシーは小高い丘の斜面になっている道へと入っていく。

 そこも十一年前とはだいぶ変わっていた。
 沢山のお洒落で近代的な家が並んでいて、益々高級住宅地の高台となっているようで凛々子は息を呑んだ。
 それは元は住人だった叔父の拓真もおなじ驚きの中にいるようだった。

「着きましたよ」

 タクシーの運転手が白い門に車を停めた。
 車を降りると、そこには懐かしい匂いがいっぱいに広がっていた。
 凛々子はまっさきに白い門へと駆け寄り、その匂いを胸一杯に吸い込む。

「拓真、早く来て」

 凛々子の笑顔に、拓真もとても嬉しそうにやってくる。

「着いた。俺たちの家」
「そう。今は凛々子の家」

 叔母の緋美子が亡くなってすぐに、長谷川の若夫妻が焼香に来た。
 その時、彼等は自分の兄と叔母が共になくなったことを、この拓真に深々と謝罪し、そして自分達も不幸があったことでかなり憔悴していた。
 ――『お前は今回は黙っていろ』。
 もうそこに飛び出していきたいのに、今はまだその時期じゃないと叔父に制され、凛々子はこの時泣く泣く、悲しみに暮れるばかりの『早紀』を見送ってしまったのだ。
 あれから一年。その間、叔母の持ち家だった薔薇の家は、叔母の姪である凛々子の名義となった。家族で決めた相続だった。
 その為か、今も『貸家』として契約している長谷川の若奥様である早紀が『思い出して辛いでしょうが、一度、姪御さんと見に来てください』と招待してくれたのだ。

「あら。いらっしゃったのね!」

 やがて白い門から、ほっかむりの帽子と割烹着の日よけエプロンをしてる女性が顔を出した。
 泥まみれの野良仕事姿。彼女がほっかむりの帽子をさっと取ると、その姿からは想像しがたい美貌の女性がそこに現れた。

「早紀さん。お言葉に甘えて来てしまいました」
「待っていたわ。拓真さん――」

 ところが顔が綺麗なその奥様は、拓真を見るなり涙をぼろぼろと流し始めてしまった。
 そして彼女の視線が凛々子へと向かう。

「お身体、とても弱かったようでしたが、お元気になられたみたいですね。とても初々しいお嬢様になられて。叔母様の面影が……」

 そしてまた彼女が凛々子を見て涙を流す。
 果てにはそこに跪いてしまったので、はっとした拓真が彼女に駆けよった。

「早紀さん。貴女、まだ……」
「だって。この一年、胸が張り裂けそうで死にそうな毎日だったわ。早く早く薔薇を咲かせたかった。そうすれば、緋美子ちゃんの魂だけでも、きっときっとここに戻ってきてくれると思って。その時はきっと不思議な力を持っていた緋美子ちゃんは、絶対に私の目の前に現れてくれるって――」

 彼女はそのままわあっと、馴染み深い友人でもある叔父の胸へと飛び込むように泣き崩れてしまった。
 叔父もそのままどうしようもない泣きそうな顔で、彼女をそっと包み込む。

「うちの兄が、うちの兄が……本当に、本当に」
「それは昨年、なんどもお聞きしましたよ。早紀さん。英治さんからも」
「緋美子ちゃんは兄に殺されたんだわ――」

 でも世間では、『あらぬ仲』であったのではないかと噂された。
 その時の叔父の屈辱的な顔は忘れられない。ただ友人として偶然に出会い事故に遭遇したと結論付けられたが。それでも噂は噂。近所の好奇な目は避けられなかった。
 そのせいで鳴海一家は、今までの家を引き払い、その街を出て行くことになってしまったのだ。だが理由は、理不尽な噂だけではなかった。日常生活上で鳴海拓真が知っている人をある程度断ち切っておかねばならない状況が生まれてしまったのだ。また好奇の目に晒されない為に。そしてこの姪と暮らしていく為に。凛々子はそれを良く知っていた。

 そしてこの砂丘の故郷に来たのも、その為。
 早紀に招待されたからではない。
 この一年、凛々子はこの日を待ちに待っていたのだ。

「泣かないで、早紀さん」

 拓真に抱かれてただ泣きさざめいている早紀を、凛々子は毅然と見下ろした。
 涙に汚れた美しい顔を早紀があげ、不思議そうな顔。

「俺、縁側で休ませてもらいますね」

 拓真はそう言うと、女二人にしてすうっと庭へと入っていってしまった。

「早紀ちゃん、お兄さんも責めないで。憎んだり悲しんだり、綺麗な貴女がしおれちゃう」
「り、凛々子……ちゃん?」

 益々、奇妙な顔で少女を見上げる早紀。
 凛々子はただただ真顔で早紀の目をじっと見つめた。
 徐々に早紀の顔色が変わっていく。それはあまりにも信じがたいと、いや、まだ信じようとはしていない戸惑いの。

「私についてきてくださいますか」

 早紀にそう告げ、凛々子もそのまま薔薇の庭に入った。

 そこはなんら変わらない『楽園』が広がっていた。
 なにも遮るものがない大空に、砂丘からの風、そして早紀がずっと丹誠込めて守ってきてくれた沢山の沢山の薔薇が揺れている庭。
 そこに包まれて、凛々子はやっと生き返ったような気持ちになる。
 そうして凛々子は、そのまま庭の奥へと向かう。割と大きな木立になっているピンクの薔薇が咲いている場所。庭の角。そこまで歩いて、ただついてきた早紀へと振り返った。
 だが早紀は既に何かを予感している顔。また凛々子の顔をまじまじと見ている。

「早紀ちゃん。『内緒の話』。まさか、英治さんにお話ししていないわよね」

 その話だけで、早紀がものすごく驚いて息を止めてしまった。
 でも凛々子は続ける。

「私も、『拓真』には話していない。今でも、あそこで縁側に座っているあの人は知らないわ。誓っても良いのよ」

 早紀の唇がぶるぶると震え始めていた。
 そして彼女の息が荒くなる。そしてどうしてか凛々子を睨んでいるのだ。それだけ『恐ろしい』のだろう。
 でも、凛々子はそのままそのまま続ける。今度はそこにあるピンク色の薔薇の花びらを一枚引き抜き、そして……それを唇に当てた。

「私達の『秘密の練習』。私達だけの、一生の秘密。これから付き合う恋人にも、結婚するだろう旦那様にも、ずうっと内緒という約束。覚えている?」

 震えいていた早紀が、薔薇の花びらを唇に寄せている凛々子を見て、ついに涙を流し始めた。
 そして彼女が叫んだ。

「緋美子ちゃん――!」

 彼女には通じてくれたのだろう。
 元々、兄とは対照的に彼女とは融合するような縁だった。
 彼女ならきっと信じてくれると『凛々子』は信じて、ここにやってきた。【緋美子】として。

 野良仕事姿の早紀がそのまま、少女である『凛々子』に思い切り抱きついてきた。

「覚えているわ。緋美子ちゃん。英治さんにだって私、話していない。だって、私達の内緒の約束だったじゃない!」
「そう。貴女は約束を破ったことなんて一度もないわ」
「緋美子ちゃんだって――!」

 だがそこで【緋美子】は視線を落として呟く。

「いいえ。貴女のお兄様と二度と会わないと言っておいて、あの日偶然に出会ったとはいえ言葉を交わしてしまい、あまつさえ火の中に飛び込む正樹さんを追ってしまったの、私」

 それは夫と友人の貴女達に二度と迷惑を掛けないという誓いを破った『裏切り』だったと、【緋美子】は告げる。
 だが早紀は『凛々子』に飛びついたまま、泣いて泣いてそして強く抱きついて離れない。そんな早紀を少女の『凛々子』はそっと抱き返す。

「花びらの秘密を知っているのは緋美子ちゃんだけ。あなた【緋美子】ちゃんなのね!」
「信じてくれるの? どうしてか凛々子に連れ戻されたみたいなの。代わりにあの子が行方不明――」

 彼女を抱き返したまま【緋美子】は薔薇を見つめて呟いた。
 早紀がさらに『まあ』と気の毒そうに驚いた顔。でも彼女は『凛々子』の頬を母親のように包み込んで、そして笑っている。

「私のお友達は、とっても不思議な女性だったのよ。もう、驚かないわ。また秘密が出来たのね」

 そんな早紀が凛々子が握りしめていた桃色の花びらをすっと取り去っていく。
 その花びらを早紀は、静かに凛々子のふっくらとしたうす紅色の唇に押し当てた。
 そしてあろうことか、花びらを押し当てたそこへ、今度は早紀が唇を寄せた。それは花びらを挟んでの、麗しい女二人の口づけ――。

 少女時代。この場所で、二人は花びらを挟んで口付けた。ただ一度だけ。
 ――『ねえ、キスってどうだとおもう?』、『さあ。早紀ちゃんが先に経験しそうね』、『ねえ、私達だけでやってみない?』。そんな花園の片隅でひそひそ話。
 いいわね。これから好きになる恋人にも結婚する旦那様にも内緒よ。私達だけの『秘密の練習』。そういって、でも唇は初めての殿方に取っておきたいからと、二人は互いに唇に薔薇の花びらを挟んだ。
 そんな秘密。二人だけの。

 それを知っているのは【緋美子】しかいない。
 だから早紀は、少女の時のまま、薔薇の花びらに唇を寄せる。そして少女『凛々子』も驚かない。

 花びらが二人の唇から落ちていった。
 二人は見つめ合い、そして微笑み合う。

「じゃあ、拓真さんは知っているのね」
「うん……。彼ももう驚かないって」

 そして凛々子は故郷の空を見上げて、微笑む。

「そして拓真が言ってくれたの。もう一度、やり直そうと――」

 私、今度こそ貴方と添い遂げる。
 私は鳴海の妻として、死んでみせるわ。

 『凛々子』の、そして【緋美子】の新しい夏がここに始まる。

 

 凛々子十六歳。この後、鳴海拓真の妻になる。
 事情があり、二人は籍を入れられない『内縁夫妻』として。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 凛々子二十三歳、夏。
 故郷の薔薇の家に帰ってきた。

 懐かしい薔薇の季節、この家での夫との口づけ。
 オレンジの制服を着ている夫が、夢中になって『凛々子』の唇を熱く愛してくれる。
 彼は耳元で『リコ、リコ』と呼んでいるが、【緋美子】は一向にかまわなかった。

 二十三歳。この夫が姪となった【緋美子】を『凛々子』として後妻に迎えてくれて七年。
 今、この家は凛々子の名義になっている。そして変わらずに長谷川夫妻が管理してくれている。

 夫妻になって七年。年の差はあってもそれは身体的なことで、実際には『二十年以上』連れ添っている夫妻。
 『凛々子』に宿ってからも、多少戸惑いが生じた時期があったが、ある時から夫も【緋美子】も何かが吹っ切れたようにしてお互いを求め合い、今まで通りの夫妻生活を続けてきた。

 なのに。夫、鳴海拓真がいきなり東京の職場を捨て、故郷の消防署に帰ってしまった。
 成人した子供達が巣立っていった家に、幼い妻『凛々子』を一人残して――。
 だから『凛々子』も追いかけてきた。この故郷に帰ってきた。この薔薇の家に。

「いけない。美紅を探してくる」

 急に夫の唇が離れてしまう。
 『凛々子』も、冷たく引き離されてしまった。
 やはり夫はもう……。『凛々子』の私では駄目なのか。【緋美子】は哀しく拓真を見上げた。

 テーブルの上には、朝食の支度が整っている。

 だが、突然に従姉で母親代わりでもある『凛々子』を訪ねに来た娘の美紅が、すれ違っている両親を二人きりにしてやろうと計って、拓真と凛々子を引き合わせるとそのまま何処かへ出て行ってしまった。
 そう確か。今朝も凛々子の様子を気にしていた少年を探すとか探さないかとか言って。
 夫がその娘を連れ戻しに行くと、またブーツを履いて外へと出て行ってしまった。

 『凛々子』は、いや【緋美子】は、切ない思いで夫を見送ってしまう。
 もう、彼はここには来てくれないかもしれない。別離しそうな両親を案じた娘の言うことを聞いてくれただけ。
 この故郷の街に、逃げた夫を追いかけても、彼は連絡すらくれないのだから。

 『凛々子』は、ため息をついて、冷めてしまった朝食が並ぶテーブルへと力無く座る。
 ため息をこぼし、項垂れる。

 これほどに生きる気力を奪われてしまうことだったのか。夫の拓真と離れてしまうということが。
 夫を二度も裏切った。なのにこのような形になっても、夫は迷いを振り払って、再び【緋美子】を愛してくれた。夫妻の愛し方は今まで通り――。ただひとつ、妻の身体が若い娘で『姪』であることをのぞけば。

「ただいまー、ママ。パパと帰ってきたよー」

 そんな声が聞こえてきて、『凛々子』はハッと顔を上げる。
 すると娘の美紅が、照れくさそうな拓真の腕にしがみついて、このダイニングに現れた。

「美紅、拓真」
「もうさー。パパったら、久しぶりにママに会ったから照れくさいんだよね」
「ば、馬鹿いうなよ。んなことあるもんか」

 だけれど美紅はそんな父親をからかって楽しんでいる。

「絶対そうだよー。だって、東京でもあんなにラブラブだったんだからさ」

 十九歳になった娘が、かなり色っぽい目つき。両親を試すかのような生意気な言い分に、父親の拓真も『凛々子』である【緋美子】も揃って頬を赤くしてしまった。

「ほら、ほら。赤くなった。そのとおりじゃん」

 美紅は赤くなった二人を指さして、大喜びだった。
 だがこの時、美紅がそれとなく口にした言葉に、隣にいる夫が少し違う様子を見せた。

「特にパパが。リコ、リコって、夢中だったじゃん」

 【緋美子】にとっては、そこの『リコ』はいつだって『ミコ』と呼ばれているに等しかった。
 だが、あんなに真っ赤になって照れていた夫が急に冷めた顔になっていたので、【緋美子】は夫のその表情にふと気を取られてしまった。

「さあ、飯、食うぞ。食ったら俺、帰るからな。美紅、お前も東京に帰るんだ。お父さんが旅費を出してやるから」
「だっさー。旅費なんていらないよ。パパに世話になるほど、金欠じゃないよ。これでも儲けているんだから」

 それでも息があったように親子がテーブルについて、箸を持った。
 それを見て『凛々子』も、いつもの親子に戻ったわと思いながら、茶碗を手にしてご飯をよそう。
 懐かしい家族の食卓が蘇ったようで、【緋美子】は目を細めた。

「あ、お前。見たぞ! 今月号の【ミミ】。なんちゅー格好しているんだよ」
「うるさいなー。あれをいま、東京の若い女の子はみんな着ているの! エッチな目で見るから、足出し過ぎとか胸開きすぎってぎゃーぎゃー喚くのよ。パパ、スケベ親父って言われるわよ」

 はあ、なんだとーと、拓真が頬をひくひくさせながら黙ってしまった。
 どうやら娘の口に勝てる者は誰もいないらしい。
 いそいそとみそ汁を装ったり、お漬け物を配ったりしていると、黙々食べている拓真が言った。

「ミコ。お前もいいから座って食え」
「あ、はい。貴方」

 びしっとした言い方は、この一家の大黒柱の威厳。
 【ミコ】と呼ばれ、『凛々子』はそっと夫の隣に座った。
 すると目の前に座っている娘が、瞳をうるうるとさせていた。

「あーん。やっぱり、パパとママはそうでなくちゃ嫌よ」

 さっきまで生意気だったお嬢ちゃんが、今度は子供のように泣き始めたので夫妻は顔を見合わせた。
 だが夫は渋い顔でその話題を避けようと、白飯を大きな口にかき込むばかり。【緋美子】も箸を取って静かに食事を始めた。
 だがこの天真爛漫な娘が、それで終わるわけがない。

「帰らないよ。暫く休みがとれたんだ。ママに宿題も見て欲しいし。前期の試験前の、短期集中勉強期間にしたの。事務所にもそういって休みをもらったんだもーん」

 すると拓真がまた『なにー』と、眉をつり上げた。

「東京だとさー。外出るのにいちいち気を遣うし。地獄の訓練中のお兄ちゃんを心配させたくないし。それにこの田舎だったら、羽が伸ばせそー。私、生まれてすぐにこの薔薇の家をでちゃったんだよね。だから一度、こうやってママと一緒に暮らしてみたかったんだ!」

 すると拓真もついに黙ってしまった。

「帰る日やスケジュールを、後でいいから、ちゃんとお父さんに教えなさい」
「分かった」
「ママに迷惑をかけるな」
「分かった」

 ついに拓真も、しばらくの薔薇の家ステイを認めてしまったようだ。
 そして美紅はちょっと勝ち誇った顔で、拓真に言った。

「パパも私がいる間は、ここにご飯を食べに来てよね。約束だよ」
「ば、馬鹿。なんでだよ!」
「だって、パパとママは夫妻じゃん。自然なことじゃん」

 でも、きっと夫にはそれが『不自然』になったのだと【緋美子】は思ってしまった。
 拓真と娘の美紅の賑やかな言い合いは、一向に収まりようがない。でも賑やかで、懐かしくて、【緋美子】はただひっそりと微笑んで静かに幸せを噛みしめているだけだった。

 

 そう言えば、と【緋美子】は『凛々子』のこめかみを押さえた。
 近頃、ちょっと身体がだるい。
 気になることと言えば、それなのだが。

 

 

 

 To be continued.→ 5章/ミツバチは花が好き です。
             時代は現代に戻り、幸樹視点が中心となります。
 

 

Update/2008.8.5
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