7.あの日の意味

 

 ──「それに……その考え、間違っていない?」──

隼人のその言葉に、葉月がしゃがみ込んだまま肩越しに振り向く。

「ま、間違って……いるって?」

泣き声は止んだが、葉月はまた声をしゃくり上げていた。

隼人はまた、庭池に向かって姿勢を直した。

暮れゆく空の中──泳ぐ鯉を眺める。

黒い革靴の側にあった小石を指でつまんだ。

 

 『ぽちゃん……』

池の中にその小石を落とすと、鯉達が慌てるように散っていった。

小さな小石を投げただけなのに、ビックリして逃げてゆく。

動物のそんな警戒心。

彼女を『ウサギ』と例える中に、隼人はそんな意味も含めている。

だから──鯉が逃げてゆくのも悲しく眺める。

 

 だが──小石を投げて彼女の心に波紋が出来ても、その波紋を受け止めさせなくてはいけない。

心の湖に出来た、ほんの小さな『僅かな波』が受け止められないようでは……

その波が心にちょっと立っただけで、痛がっているようでは……

葉月もれっきとした『人』にはなれないだろうから……。

今がその時なのだ。

 

 「この前、言わなかったか? 俺……」

「え? い、いつの事?」

葉月の震えた声を隼人は背中で受け止めるだけ。

「……花見の時だよ」

「花見?」

「そう、俺……先輩の事、なんて葉月に話したか覚えているか?」

「…………」

葉月が鼻をすすりながら、一時黙り込んだが──

「……遠野大佐がいたから、私達が出逢えたって。その関係があったから今があるって……」

震える声が返ってきた。

「そう──それと一緒だよ」

「一緒?」

隼人はもう一度……小石を池に投げ入れた。

鯉はもう寄ってこない。

そして、座っている岩から紫陽花の植え込みに振り返る。

葉月はしゃがみ込んだまま、ハンカチで口元を押さえて……

ジッと隼人を見上げていたのだ。

木陰で飼い主すら警戒しているウサギを見つめて……隼人は呟く。

「……それと一緒。葉月……お前にとって『その日』は一生消えない日だろうね?

でも──その日がなかったら……俺達どうしていた?」

「──!!」

葉月が瞳を見開いて、やっと気が付いたようだった。

「それとも……あの日が存在しない違う幸せが今でも欲しい? 取り返したい?

そうなっていたら……それはそれで最高な幸せを今より掴んでいたと思うよ?

きっと──軍人なんかじゃない葉月がいて……ヴァイオリンを持って……

お父さんが認めてくれた品の良い、もしくは……優秀な隊員と結婚していたかもな?

もう──母親になっているかもしれない……」

「……」

隼人の言葉に……葉月がまた瞳を曇らせたが──

「俺との出逢いは……なかっただろうね。

俺といる意味……ないだろうね……。

あの日を否定することは、葉月は……俺との出逢いもおろか……

海野中佐とも出逢わず、康夫とも出逢わず……そして、遠野先輩とも出逢わなかった。

お前は……その数々の出逢いに『幸せ』とか『感謝』は全くないのかな?」

「感謝──」

そこで葉月が立ち上がった。

「俺は──お前と付き合い始めてから……ずっと思っていたよ。

今までの葉月があるから……俺はお前といられるんだよ。

今までを背負ってきた『御園葉月』に惹かれたんだ。

美しいとか仕事が出来るとか……そんな事じゃない。

そこまで歩いてきた葉月と一緒に前に行きたいと思ったから……

フランスを出て……お前の側で俺も……『何か見つけたい』

そのパートナーになってくれる『人間だ』と、俺はそう感じたんだ。

あの日を今でも背負っている葉月を否定しないのは、そう言うことで

受け止めていくのは、側にいたいと願うなら当然の事だ。

否定したならば、葉月自身を否定したことになる。

そして──俺がフランスを出てきた意味もすべて無意味だ」

「隼人さん……」

「あの日と戦うのは……誰でもなく葉月自身だ。

だけど──あの日を否定しちゃいけない、どんなに苦しくても憎くても悔しくても!

お前がどんなに醜い憎しみを刻んだ態度を現しても……俺は見ているつもりだよ?

『あの日の意味』は、今ここに向き合っている俺達のこの時間のすべてじゃないのか?」

「隼人さん……」

そこで葉月がまた──しゃがみ込んで泣き始めた。

隼人もため息……。

「だから──あの日がなくて、他の幸せがあったはず、それが欲しいと言われると

俺──辛いよ。俺……葉月が他の男の事、忘れられないと言うより辛い。

その幸せに似た形は俺も与えてあげられるかもしれないけど……

俺との出逢いを否定されたように聞こえるから……」

「ごめんなさい……私──」

「謝らなくていい……! 謝らなくていいから……」

隼人もそこで岩から立ち上がった……

 

 「そこから……出てこいよ。そんな所で一人で泣いていないで……閉じこもらないで

こっちにこいよ……『ウサギさん』」

 

 隼人がそっと手を差し伸べると……葉月が瞳を濡らしたまま、またジッと隼人を見上げていた。

 

 「俺一人じゃ、不安か? 俺だけじゃないぞ……沢山いるだろ?

ロイ兄様に、ホプキンス中佐に……ジョイ、山中の兄さん、小池中佐。

右京兄様に……海野中佐、康夫も……亡くなっても遠野大佐の言葉も思い出せ!

いっぱいいるぞ? どうした? それでも物足りなくて過去に帰るか?

まだ、最強の男もいるだろ? その男、どんな男か知らないけど

その男も同じ事いう男に俺は感じるけどね? だからだろ?

俺が選んだ『相棒』が、敬愛している男だ。そういう男だろ? どうなんだよ?」

「…………」

葉月がやっと立ち上がって……紫陽花の植え込みから一歩前に出てきた。

そして……

 

 「おいで……」

 

 隼人が真顔で冷たく言うと……

そっと、隼人が差し伸べている手の上に……ヒンヤリした白い手を置いてくれた。

 

隼人もニッコリ……。

葉月は照れくさそうに俯いていた。

 

 『こんな私……』

そっと漏らした一言も、隼人には聞こえていた。

 

 「有り難う……葉月」

隼人がそう言うと、葉月はもっと驚いた顔をして泣きはらした瞳で隼人を見上げたのだ。

 

 「何故? 何故……あなたが私にそんな事をいうの!?」

いつもずれていると彼女はいうが、そのずれっぷりにだいぶ驚いている様だった。

でも──隼人もそっと微笑んで俯く。

「どうしてって……こうして俺の言葉を受け取って、手を取ってくれたからさ」

「たった、それだけで?」

「いや……『それだけ』というのも間違っている。

これほど……人と付き合う事で『通じる感触を得る』というのは難しいことだぞ?

俺も嫌と言うほど、人を避けて、人を嫌って、人と別れてきた。

『言葉』は……『意味』を含めた『音、形』一種の『形態』でしかない」

「難しい事言う」

葉月が子供のように困った顔をして俯いた。

『子供と一緒よ』

この子の母親がそう言ったのを隼人は思いだして──また、そっと微笑んだ。

「そうだった……えっと、例えばだけど……

じゃぁ、簡単な所で『愛している』と言葉にしたとしよう?

葉月はこの様な言葉は……沢山言われてきたと思うけど。

その時、どう感じた? その一言ですぐに信じることが出来たか?」

「時と場合には……」

「よし。時と場合に信じることが出来たんだな?」

「うん──それが?」

「その時と場合に信じられた時は……『言葉が通じ合った』と言う事だよ。

何でもかんでも、言葉で表現するだけじゃ意味はないんだ。

『言葉』という方法を用いて、気持ちが通じ合う。

『愛している』という言葉の表現は、愛情を伝える方法としては一つの方法にしか過ぎないんだ。

いいか? その『言葉』という表現が『最大に生きる』のは『信頼』しかないんだ。

葉月は……今、俺の言葉を聞いて、手を取ってくれたね?

それは……『信頼してくれている』という『証拠』だ。

だから──『俺を信じてくれて有り難う』──そういうこと。

俺もね……こういう事は……葉月と付き合い始めてから知るようになったんだ」

「私と付き合い始めてから?」

「そう、そう言う事をちゃんと考えさせてくれる相手なんだ。

お前はさっき……俺を幸せに出来ないから、こんな自分が『憎い、壊れたい、消えたい』と

言っていたけど、俺としては今の葉月で充分、沢山色々な事気づかせてもらって感謝している」

隼人が葉月の手を握ってニッコリ微笑むと

葉月にはまだ、その隼人の言う真意が理解する範囲ではないのか?

また驚いたようにして頭を左右に振って否定したのだ。

「俺に与えてくれる幸せって何だ? 今までの憎たらしい自分を捨てることか?

そんな葉月は、俺の知っている葉月じゃない。余計な事、するなよ……」

「でも、でも──本当に、このままじゃいけないと思って」

「…………いや。今のままでいい。

それでも、葉月が今以上を目指したいと言うなら話は別だけど。

そこまで自分を追い込んで『壊したい』というのは、俺にとっても無意味なんだけど」

「…………今のままでいいの?」

葉月がそっと、ガラス玉の瞳に夕闇を映して隼人を見上げる。

お互いに取り合っている手、葉月の冷たい手がだいぶ暖まって汗ばんでいた。

その手を……隼人は握り返した。

「ああ、否定しない。『他の男が忘れられない事』もね」

隼人も……この言葉を言うのは勇気がいることだった。

だから──少しばかり声は小さかったかもしれない。

でも──葉月はまた、瞳から僅かに涙を浮かべていた。

それが、彼女にとって今は『苦』なのだ。

『その男が忘れられない事』が『苦』で、その『苦』を与えているのは隼人自身なのだ。

隼人の為に、彼女はその男性との関係をどうにか精算しようと急いでいたのだろう?

そこに立ち向かって、壊れたくなったのだろう。

『それで充分だ。その姿勢だけで充分だ。今は──』

だから、その姿勢をこんな小さな心で立ち向かおうとした彼女に……

壊れたいほど自分を追い込んでくれた彼女に、隼人も『感謝』をして勇気を振り絞らなくてはいけない。

 

 「葉月……凄く、格好良いこと言ってしまうかもしれないけど

俺の気持ちもどうだか解らない。でも──『理想論・正統論』として言わせてもらうとね?」

「何?」

「その、忘れられない男とか言う人の事、それも俺は否定してはいけないんだろうね?」

「!?」

「悔しいけど……その男のお陰で、今、目の前にいる葉月がいるのだろうね?

俺が大好きな葉月を……導いてくれた人なんだろうね?

葉月をここまで……作ってくれた人なのかもね?

悔しいから、言いたくはないんだけど、認めたくはないんだけど……俺が好きな御園葉月を……。

だから──『あの日の意味』と一緒だ。その人の存在も、俺は否定すべきではないんだろうね?」

隼人が瞳を悲しく伏せると……今度は葉月が手を握り返してくれた!

 

 「有り難う──気が楽になった」

 

 隼人が伏せた眼差しを開くと……そこにいつもの輝く瞳の葉月が神妙に隼人を見つめていた。

少年のように澄んだ輝く瞳だ。

隼人が惹かれる、隼人をいつも勇気づけてくれる眼差しだ。

 

 「本当はその人を否定されると凄く辛いの。

なのに──隼人さんったら……本当に……」

 

 その輝く瞳はまたすぐに涙の瞳に変わってしまった。

葉月は、また目元をハンカチで押さえてグズグズと泣き始めたのだ。

 

 だが──隼人がその男を受け入れることで、彼女の『苦からの解放』を見た気がした。

いつもの穏やかな彼女の泣き顔に戻っていた。

『これでいいんだ。今は……きっと』

隼人も涙は出ないが、泣きたい気持ちだった。

彼女の栗毛の頭をそっと肩先に引き寄せて、栗毛の頭に頬を埋めた。

今日はヒールを履いている葉月──。

頭が──風にそっと柔らかくそよぐ栗毛が隼人の鼻をくすぐる。

そして──葉月は今度は隼人の肩先で涙をこぼしていたのだ。

『俺も泣きたい。切ない──葉月。お前がすごく愛おしいのに……

まだ……俺が、すべてじゃないんだね。でも、これでいいんだ。これが葉月なんだ』

 

夕闇の中──彼女の頭を撫でながら、空を見上げると、もう中庭は闇に染まりそうな一歩手前。

こうして抱き合っていても、週末の勤務時間外。

誰の気配もない……誰も二人には気が付かない。

 

 でも──それでも棟舎を見渡すと……

『!!』

高官棟の四階だった。

そこに隼人の視線が行くと……人影と視線があった!

リッキーだった。

彼は隼人と視線が合うなり、そっとお辞儀をして窓辺から遠ざかっていったのだ。

『見ていたのか……俺達の事』

でも──これで葉月が落ち着いたことは……ロイの耳に入って……

ロイも安心するだろうと、隼人はそれで良しとした。

『ウサギさんも……こうして胸の中に戻ってきたし』

 

 「ああ、そうそう──葉月に一つ、お願いがあるんだけど」

「何?」

瞳の涙を拭って葉月と視線があった。

隼人は、握り合っていた手をほどいて……彼女に背を向けた。

「隼人さん──?」

隼人はスラックスのポケットに手を突っ込んで、また庭池に視線を落とす。

小石を投げて逃げていった鯉達がまた……足元に集まってきていた。

「葉月のあの日を否定しない……。俺が、そう考えついた訳もね……。

実は葉月のお陰なんだ……。だから──そのお返しをしたつもりで……」

「──?? 私のお陰? 何もしていないけど……」

「いや。 フランスで……躊躇っている俺を、受け入れてくれただろ?

フランスで意固地に殻に籠もっていた俺を……そっとしてくれただろ?

お前──あの時、本当に凄かったね……。そんな俺だろうとおいて帰国した潔さ、凄かった」

「え? あんな事が? と、いうか黙って帰って随分失礼だったと思うけど……」

隼人は久し振りにあの頃を思い出して、ニッコリ……葉月に振り返った。

「……小笠原に来てからも、一言も聞かなかったな」

「何を?」

「俺と継母の事」

「!!」

隼人が初めて面と向かって言葉にしたせいか? 葉月も驚いて硬直した様子が伝わった。

「葉月と出逢った『過程』の中に……俺が否定していた日々も含まれていると気が付いてね。

俺がもし? 家を飛び出すようにフランスに留学していなかったら……

やっぱり──俺と葉月は去年、出逢ってなかっただろうね?

それと一緒でね……俺の15年を葉月が否定せず、受け止めてくれて……

フランスにいたいならいればいいと置いていってくれた……。

小笠原に来ても……そっとして置いてくれたね? 無理に聞き出そうとしなかっただろ?

そんな葉月を見ていて──じゃぁ? 俺は逆に葉月にどうして上げればいいか?

そうしたら、答えは簡単じゃないか? 葉月の16年を否定しないことだ」

「私──別に、そんな深く考えていなかったし……」

「だから、葉月は凄いんだよ……。考えなくても自分の物にしている」

「それで? お願いって?」

「…………」

空を見上げた隼人を葉月が訝しそうに黙って見つめている……。

「俺も──葉月がそうして自分を追い込んだ訳だから……

『決着』付けようかと思って……俺は葉月と違って大方、ケリを付ける準備が出来たから──

それを……見届けて欲しいというか……」

「継母様と……どうするの?」

「別に──どうって訳じゃないけど……『真の家族』になりたくて」

「…………」

空を見上げていた隼人はそっと葉月に向き合った。

 

 「俺と横浜……一緒に来て欲しいんだ」

 

 隼人の申し出に葉月が息を止めたような反応を。

「えっと──、そんな事、言われなくても前から約束していたじゃない?」

「一緒に来て欲しいんだ」

それを繰り返す隼人の眼差しに……葉月がまた、固まった。

そう──隼人は継母と接する自分を見られるのが本当は怖かったのだ。

だから──

「俺じゃない俺を見るかも知れないよ。でも、見て欲しいんだ

情けない義理息子の姿を見せるかと思う……それでも葉月に見届けてもらおうとやっと覚悟が出来た」

「隼人さん……」

「いつも偉そう──! とかいう、お前の兄様側近じゃないかもしれない俺だぞ」

「……そんなの関係ないわよ」

「一緒に来て、うちに泊まってくれるか?」

隼人の固い表情に葉月は戸惑っていたようだが……

「うん、大丈夫──」

あの前向きの瞳でしっかり頷いてくれた。

「良かった……いざとなったら鎌倉に泊まるというかと思って」

「迷惑かかるならそうしようかと思っていたけど……そういう事なら側にいる」

「良かった」

隼人がほっと微笑むと、葉月もやっと微笑んでくれたのだ。

 

 

 「あーあ、お前さぁ……なれない化粧なんかしているから見ろよ?」

葉月を夕闇の中、話が落ち着いたところで隼人は早速、葉月をからかう。

「え? なに?」

「マスカラ? だった? いっぱい取れているぞ?」

「えー? ほんとう??」

「こんな事しなくても、充分なんだから」

隼人は葉月が手にしているハンカチをとって、葉月の目頭に散らばったマスカラの粉をふき取る。

「……今からお食事なのに……こんな顔」

葉月も素直に瞳を閉じて、子供のように隼人の手先に委ねてくれている。

隼人もその顔が可笑しくなってクスクス笑いながら、葉月の目元を綺麗に拭った。

「目も腫れたなぁ」

「えーー! もう、お父様に会えない!」

「対して差はないよ」

「どういう意味よ!」

葉月が怒ったので、隼人はまた大笑い。

「誉めているつもりなんだけどなぁ?」

「お化粧すればしなくて良いっていうし、していなければ化粧しろっていうしどっちなのよ!」

「あ。そういえば……」

「そういえばじゃないわよ!!」

いつもの調子に戻って隼人もホッと一安心、したところで……ふと思い出した。

「本部もほったらかしちゃったな」

「あ──」

葉月も急に我に返ったのか、顔色を変えたのだ。

「でも、ジョイがいるから大丈夫だろ? 小池中佐も今頃来ているだろうし……

それよりな? 大佐のお前がそんな顔じゃ示しつかないし、皆が動揺する。

お前、カフェで一息ついて来いよ。俺が本部の様子、見ているから」

「でも──」

「ゴタゴタ言わない! 上着も脱いで行って来い!」

「上着を脱ぐの??」

「そうだ。まだ、皆、お前の昇進知らないだろ?

大佐の肩章付けたばかりの御園大佐がカフェで泣き顔じゃ、第一印象はパアだな。

そう言うところは、俺達の大佐として凛としておいてもらいたいからね。

ほら! 手伝うから! 上着脱いで、女の顔でカフェに行って来い!」

隼人が左肩を吊っている包帯の結び目を無理矢理ほどくと

葉月もつられるようにして、右手で金ボタンを外し始める。

「……隼人さん、本当に有り難う……。本当に気が楽になった。

ううん──今までだって沢山……隼人さんから私もいっぱいもらっている。色々な事。

それから……私が私である事、隼人さんの隣にいると、私も自分で解る」

彼女からやっと輝く瞳の笑顔。

「そう──その笑顔でその瞳で答えてくれる事が……

『言葉』じゃない……愛情表現っていうのかなぁ?

言葉なんて……なくても、そういう事、与え合うことも大切だと俺思っていて……

葉月からはそう言うことも結構、俺はもらっているからね……」

隼人がそうして葉月をジッと見つめると……葉月が頬を染めて俯いた。

 

 『じゃぁ──あとでね!』

中庭を出て、上着を脱いだ葉月は隼人の言葉通り、カフェに向かう。

元気よく……右手を思いっき振って、階段を駆け上がっていった。

先程──泣きながら下った階段を、彼女は今度は笑顔で駆け上がってゆく──。

その姿を……隼人は彼女の上着を片手に持ったまま見守った。

 

 『……叶わない恋をしているんだろうな。きっと……』

隼人はそう思った。

そうでなければ……葉月が長年、その男に捕らわれることもないだろうし……

忘れられないと、他の男を好きになってから揺れることもないのだろうから……。

 

 『どんな男なんだろうな?』

 

隼人もため息一つ……隣棟の四中隊に戻ろうとした。

 

 だけれども──

葉月と少しずつ通じ合う感触は得ている。

それは紛れもない日々の積み重ねで得たかけがえのない物。

隼人の後押しで、元気に笑って走り出すウサギさん……。

その感触があればこその……『隼人だけの確信』

それが今の隼人の支え──。

 

 そして──隼人も立ち向かう。

『叶わなかった恋』との決着だ。

それをせずして、どうして彼女の恋を否定できようか?