××× ワイルドで行こう ×××

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 11. 俺、独りぼっちなんだ。

 

 土曜日の夕。琴子は母と共に料理をしていた。
「もー、あの滝田さんが、まさかまさか経営者だったなんてねーっ」
「別に。経営者じゃなくても、滝田さんは滝田さんでしょ」
 そんなうきうきしている母に対し、琴子は冷めた応答に徹した。
「あらあら。社長じゃなくても、彼はいい男だって言いたいんでしょ〜」
 いちいち母は意味深な笑みを娘に見せる。琴子は素知らぬ顔。
「でも、お母さんもそう思う。社長じゃなくても、彼はいい人というのは変わりないわね。また琴子にばれるまで黙っていたというのが奥ゆかしいわね」
 先日、彼の正体が判明してから母にも報告。それから母は『やっぱりー! ただ者じゃなかった』と大はしゃぎ。
 娘とその彼がそれとなく『良い関係』になりつつあることも察しているようで、真っ向からの確認はしてこないが、もうわかっているようだった。
「ねえ、お母さん。やっぱり『お重』なんて大げさよ。こんなの電車とバスを乗り継いで持っていくの重たいもの」
 だが、そこは母が怖い顔を琴子に見せた。
「これぐらい。彼のために、頑張りなさい」
「お母さんが彼に食べて欲しいんでしょう、これ」
 お重に詰められたおかずのほとんどは母が作ったものだった。
 琴子が『土曜日に彼のお店を見に行ってくる。自宅も兼用なんですって』と告げると、また母が張り切って作り始めてしまったのだ。
 その横で、琴子は一品だけ。小アジの南蛮漬けを作った。
 夏本番、まだまだ空も明るい夕。母娘はお弁当を作り終え、琴子も出かける準備を整えた。
「行ってきます。きっと彼、お母さんのお弁当を喜んでくれるわよ」
「お店の従業員さん達にも、きちんと挨拶をするのよ」
 英児から『俺の他に、整備士が三人と事務員が一人いる』と聞かされていたので、母に言いつけられ琴子も頷いて出かける。
 
 だけれど、琴子はそれを避けていく心積もりだった。
 自宅を兼ね備えているといっても、彼にとっては職場。あまり姿をちらつかせたくない。琴子の場合は。『お店を閉める頃行くね』と彼にも伝えていて、英児も承知してくれた。
 彼の仕事姿を見たいけど、それはまた次の機会に。まだつきあい始めたばかりだから。
 母とこさえたお重を持ち、琴子は電鉄の駅へ向かう。
 日が傾いたとはいえ、まだ空は青々としていて蒸し暑い。日傘片手にのんびり歩く。
 峠が近い郊外にいる琴子の家と、海側にある空港近い郊外に店を持つ英児とは正反対に位置していると言っても良い。そこへ今から郊外電車とバスを使って向かう。
 
 一度中心街の駅を降り、そこから空港行きのバスに乗る。店の立地はほぼ空港の傍。
 道順も教えてもらったが、本当に郊外だった。少し行けば、この前入り江からきらきら光って見えた工業地域。だけれど、あそこなら街の雑踏や賑やかさからは遠ざかるが、のびのびとした環境で店を運営しているのだろうと想像できた。
『一目でわかると思うから』
 あの龍星轟のマークが目印と英児が笑っていた。
 郊外電車にバスを乗り継いでいる内に、空に茜が滲み始める。バスの窓には、離陸したばかりのジェット機が横切っていく。夕なずむ空へ機首を上げて。
 空港をすこし通り過ぎた国道沿い。住宅地というよりかは、店舗や企業事務所が多い事業所地帯と言えばいいのだろうか。そんな道筋にあるとあるバス停で琴子は降りる。あとは道沿い、日傘を差してゆっくりと行く。
 でも胸がドキドキしていた。彼の、お店。彼の会社。彼の自宅。彼の世界。
 そしてついに、その目印をみつける。
 まだ目の前じゃない、百メートル以上ありそうな位置でもすぐにわかる。コンクリートのフェンスにでかでかと、あの龍と星のロゴマークがペイントしてあったから。
「ほんと。一目でわかっちゃう」
 揺らめく熱気がまだある夕の歩道を琴子は急いだ。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 フェンスのペイントが、おそらく看板代わり。店を取り囲んでいるフェンスに辿り着き、琴子はそこを超える前にそっと覗いてみた。
 奥に二階建ての事務所らしき建物、その隣にシャッターがあるガレージが二つ。ひとつは開いていて如何にも整備ガレージと伺える設備と車が数台入っている。その隣のガレージはシャッターが閉まっていてわからない。
 建物前にはガソリンスタンドのように広めのコンクリの敷地になっていて、そこで彼が車一台と向き合っていた。
 いつもの紺色ジャケット。今は夏服なのか半袖、その袖にあのワッペン。そしていつもと違うのは、デニムパンツではなく上着とお揃いの作業ズボンを履いている姿だった。上下お揃いの作業着。本当に整備士を思わせる姿。
「タキ、帰るぞ。お疲れ」
 彼と同じ上下紺色の作業着姿の男性が見えた。若い男性ばかりかと思ったら、琴子の父親ぐらいの年齢かと思わせる壮年の男性がいる。少し意外に思った。しかも如何にも『職人気質』を思わせる強面のおじ様。
「ああ、お疲れさん。あとは俺がやっておくよ」
「気前良いねえ。女を待っているヤツは」
 おじさんがニヤリと笑う。そして琴子はドッキリ、彼が琴子を待っているだなんて……既に従業員に知られているみたいだから。
「うっせいな。せっかく早く閉めるんだから、とっとと帰って孫のところに行けよ。たまには娘さん家族に親父からサービスしろよな」
「余計なお世話だ」
 孫だって。親同然と言った年齢らしい。琴子はますます驚く――。
「お前、惚れたら一直線になるんだから、夢中になりすぎるなよ。まあ、店終わってからくるような女で安心したわ。お前の女気取りで営業中にその面でくるような女は反対しようと思っていたけどな」
「……彼女の方がしっかりしているもんでね」
 琴子はまたドッキリ。やはりこの気構えで正解だったと安堵のため息をひっそりついた。
 社長さんは彼かもしれないけれど、やはり年配の目上の人がいるなら、あの男性が若い経営者のお目付、気を配っておいて正解だったと。
 社長さんに挨拶はしなくて良かったが、いずれ、あの強面のおじ様にはきちんとした挨拶をしておいた方が良さそうだと思った。
 そのおじ様は店の端に駐車している車に乗り込んで、龍星轟の店先に出てきた。道路に出るための停車、左右を確認している運転席。その時、おじ様の目線がフェンスの影に身を潜めていた琴子とかっちり合ってしまった。
 会釈をしたいが、咄嗟に日傘で顔を隠してしまう。道路を走っていた車が途切れ、帰路につくおじ様の車が発進。
 ――『プップッ』。
 琴子の前をすがる時、クラクションを鳴らされてしまう。『気付かれた』。そう思った琴子は遅いとわかっていたが、日傘を閉じ過ぎていってしまった車へと会釈をしておいた。
 空の茜が薄らぎ、空港とその向こうの内海に夜の青が忍び始めている。琴子はまたフェンスから店先を覗いた。
 従業員が帰り、店長たった一人の店先。事務所の看板にも龍と星、滝田モータースの文字は小さく添えられているだけで、龍星轟という文字とロゴが大きく描かれていた。その看板を照らすライトが、事務所前の作業場で車を磨く彼を照らす。
 ワックスがけをしているようだった。黒い、ちょっとレトロな車。マニアが所有しているのだろうか。その車にワックスを掛けている。
 丸いケース片手に、スポンジにワックスを取り、それをボンネットに丁寧に塗っている彼。人の車でも英児のその横顔は真剣だった。初めてみる横顔に、琴子は釘付けになる。
 低いボンネットに身をかがめ、長い腕がじっくりと車のボディを磨く。決して楽な姿勢ではなくとも、英児はボンネットの端の端まで、きちんとワックスを塗り込んでいる。その手つきに、やはり愛を感じた。車を優しく撫でる手……。ちょっとドッキリとしてしまう。だけれどそんな琴子の僅かな女のときめきを霧散させてしまうのは、英児の眼だった。離れているここでも、彼のあの黒い瞳が煌めいてはっきりと見える。その眼に濁りはない男の純粋な輝き。さらに真一文字に結ばれた口元に揺るぎない信念を見る。そんな彼を琴子はひたすら見つめていた。いや、近づけなかったのだ。そして、見ていたかった。
 そんな英児はやっぱり素敵だと思った。なかなか見られないだろうから、琴子はここでじっと見ている。
 やがて空は薄暗くなり、ぱたくたと小さなコウモリが英児の店の上を飛び交う。僅かな茜を残した夜空に、東京行き最終便のジャンボ機が横切っていく時間。そこでやっと英児が腕時計を確かめる。はっと我に返った顔を琴子は確かめる。慌ててポケットから携帯電話を取り出す彼――。
 琴子はそっと微笑んでしまった。本当に車のことが好きで、没頭したら時間を忘れてしまうのね……と。
 肩にかけている白いバッグから着メロが流れる。その時やっと、琴子はフェンスから店の入り口へと立った。
「琴子」
 バッグの中のメロディがやむ。英児も電話をポケットにしまい、すぐにこちらに駆けてきた。あの作業着姿で慌てるように。
「いつからそこに」
「もう一人の整備士さんが帰る時から」
「えっ。どんだけそこにいたんだよ」
 面食らう英児に、琴子もそっと笑う。
「貴方がどれだけ車が好きか、よくわかったから」
 ワックスがけを見られていたと知り、しかも黙ってじっと見られていたことに唖然としている英児。
「うんと格好良かった。だから、ずっと見ていたくて……時間が経っちゃった」
 少しだけ申し訳なさそうな小さな笑みを見せた英児、でもすぐにいつも通りに琴子の肩を抱いて胸に寄せてくれた。
「暑いのに。なにやってんだよ。待っていたんだからな」
 待っていてくれたのだろうけど、車にはまだ勝てないのかもしれない。琴子は胸の中だけで呟き、それでも油の匂いと煙草の匂いがする彼の作業着に頬を寄せて静かに微笑む。
「これ。母が貴方に食べて欲しいって。また張り切っちゃったの」
 風呂敷に包まれたお重を運んできた紙袋を差し出すと、彼が母に見せていた無邪気な笑みをすぐさま浮かべた。
「うわ、嬉しいな。この前いただいたお母さんの飯、マジで美味かったんだ」
 琴子の手から、彼が本当に嬉しそうに受け取ってくれた。
 社交辞令じゃないと、今ならわかる。でも……それでも本当に嬉しそうな顔をするのが、ちょっと不思議だった。
 
 二階が俺の自宅な。
 英児に手を引かれ、琴子は『龍星轟』の店内兼事務室へと連れて行かれた。
 そんなに広くはない店内。接客をするための綺麗なソファーやテーブルが二セット。カタログがたくさん展示されている。店のガラス壁には、いろいろなカー商品が展示されている棚も。
 そして奥にはノートパソコン数台を置いているスチールデスク。事務所スペースと言ったところのよう。
「ここでお客様と話し合うのね」
「ああ。車の部品、内装のインテリア、うちでセレクトしているカー用品。いろいろな」
「車のセレクトショップなのね」
「そうとも言うかもな。とにかくさ、いろいろ探して試すのが好きだからな『俺達』。それを客にも勧めているだけ」
 ――『俺達』という言い方が、彼らしいと琴子はまた微笑む。先ほどのおじ様を含め、きっと彼に負けない車好きが集まっているお店なのだろうと想像できた。
「二階が俺の自宅な」
 事務所デスクが並んでいる向こう、壁際にドアがある。そこを英児が開けると、二階に向かう階段があった。
 この造りだと、最初から店舗兼自宅を要望して建てたとしか思えなかった。
 その階段を上がると、本当に玄関のようなドアがある。そこを彼が鍵で開ける。
「わるい。勝手にあがって良いから。俺、店を閉めてくるからここで待っていてくれ」
「うん、わかった」
 琴子を玄関に入れると、英児は急ぐようにして階段を下りていく。
 琴子もサンダルを脱いで、そのまま先にあるドアを開けた。勿論そこはリビングで、テーブルと小さなソファーとテレビ。そして対面式のキッチン。ごくごく普通で、最小限のインテリア。そしてやっぱり『男の匂い』に溢れていた。
 英児の部屋らしく煙草の匂いは勿論、やっぱりあの匂いも。
 ソファーの背には、いつものデニムパンツが放ってあったり。男らしい暮らしぶりの部屋。
 だが、ひとつだけ。ものすごい違和感が。リビングなのに、大きなベッドがドンと置かれている。しかもダブルベッド……。一人暮らしのはずなのにダブルベッド。
 琴子の中に、ふとしたものが浮かぶのだが。
 窓の向こうは、遠く海が見えた。白波をひきながら進むフェリーにタンカーが明かりを灯して、茜と紺碧の夜空が溶けあう内海をゆく。
 外からガラガラとシャッターが降りる音がする。暫くすると玄関が閉まる音も。
「お待たせ」
 作業着姿の彼が戻ってくる。だけれど、日暮れたばかりの薄暗い部屋の真ん中に、琴子が佇んでいるのを見て驚いた顔。
「なんだ、灯りぐらいつけてもいいのに」
「海と空が見えて綺麗だったから」
 彼がちょっと呆れた顔をしたが、すぐに微笑むと暗いまま琴子の側に来てくれる。
「遅くなってごめんな」
「ううん。私も残業が続いていたでしょう。出かけるまで一日ゆっくり休めたから、大丈夫」
 そっと背中から抱かれた。長い腕が琴子の身体をぎゅっと抱きしめる。そして耳元にいつもの口づけ。
「今日もまた……これ、俺が好きそうなの着ているな」
 ふわふわとしたシフォンのブラウス。黒地に白い水玉模様、胸元はふんわりリボンのボウタイブラウス。それに白いスカートを合わせてきた。そのふんわりリボンを、早速、英児がほどいてしまう。
 本当に迷いがなくて、手が早いって……。しかも彼の手は素手ではなく、薄汚れた整備用の手袋。それで琴子のブラウスのリボンをゆっくり堪能するかのように引っ張ってほどいている。それどころか、やっぱりすぐに琴子の顎を捕まえて強引に唇を塞がれてしまうし……。でも。彼のこと責められない。琴子もすごく待っていた。だから薄闇の中、すぐに彼に抱きついて同じように彼の唇を愛した。
「……琴子」
 はあ、と切なそうな彼の吐息。それが徐々に荒くなって、それにつられるかのように英児の手が琴子の乳房に触れたのだが……。
「はあ、だめだっ。流石にこのまま琴子を抱けないわ。シャワー浴びてくる」
 彼が離れる。
「いいのに。私、貴方なら平気」
 むしろ、今度は琴子が思う。『熱気の中、働いて働いてくたくたになった男の身体の匂いはどんなもの?』なんて。ちょっとドキドキしてしまうあたり、もうなんだかこの男にやられちゃっているんだなと呆れてしまうほど。
「いや、身体じゃなくてさ。こっち」
 そして琴子の目の前で、整備用にはめていた手袋を取った。外の灯りで手だけが明るく見えるところで、彼が琴子にそれを見せた。……爪先が黒かった。指も爪の中も、油でべっとり。
「真っ黒」
「だろ。油とかいろいろ入るんだ。爪専用ブラシで洗わないと落ちない。これで琴子には触れないだろ」
 そう言って笑うと、彼は琴子の頭をぐりっと撫でて離れていく。パチンとした音で灯りがついた。彼は奥にある扉に消えていく。やがてシャワーの音が。
 琴子もほっと息をついて、気持を切り替える。テーブルに、母のお弁当を並べる準備に取りかかる。
 そのうちに、短い時間で英児が出てくる。濡れた髪に首にはバスタオル、そしてティシャツと夏らしい短パンをはいて出てきた。
「相変わらず、うまそうだな」
 テーブルに整った料理を見て、彼がまた無邪気な顔。母に見せてあげたかった。
「お茶とかある?」
「ペットだけどある」
 対面式キッチンの向こうにある冷蔵庫へ英児が向かう。そこから大きなペットボトルとグラスを二つ持ってきてくれた。
「ビールとか飲まないの? 今日みたいな日は、お仕事の後は美味しいんじゃないの?」
 母が入れてくれた紙皿に、いくつかのおかずを取って準備をしていると、英児はソファーではなく床に跪いて箸を持っている琴子のすぐ隣に座り込んでしまった。その途端に、柔らかいシフォンブラウスの腰を掴まれ、英児がニンマリとした笑みを浮かべながら抱きついてくる。
「なに、琴子は今日、俺んとこに泊まる気なのか」
「え。……そうしたいけど、あの、」
「だろ。帰らないと、お母さんが待っているだろ。いくら俺と琴子がいい年の男女でも、母親にとってはいつまでも娘なんだから。酒を飲むと運転が出来なくなるんだよ。お前を送って帰れないだろ」
 はっと気がつく琴子。
「それに車乗り回すから、滅多に飲まない」
 英児の手が腰からさらっと離れる。片膝をたて、琴子の隣でゆったりくつろいだ英児の手が、母が詰めた重の中にある空豆をつまんだ。
 琴子に触りたくて、ちょっとふざけた顔をしたり、してやったりの得意顔で琴子を腕の中に押し込んで勝ち誇っている彼が、そうはせずに遠くを見た。窓の向こうの、もう消えてしまいそうな夕闇を。
「母ちゃん、大事にしろよ。俺も、琴子の母ちゃんは泣かせたくないからさ」
 いつにないしんみりとした寂しい横顔に、急に琴子の胸が締め付けられる。こっちまで泣きたくなってくる。
「うん、大事にする。お母さんも、英児さんもね。いま、私にとって大事な二人だから」
 母が作ったおかずを乗せた紙皿を、彼にそっと差し出したのだが……。その手を怖い顔している彼に掴まれる。
「な、なに?」
 睨まれるように見上げられたので、琴子はドキリとさせらる。
 だが次には、あの英児が琴子の胸元に飛び込むようにして抱きついてきた。
 ふわりとした水玉のリボンがあるそこに、胸の谷間に英児が顔を埋めて頬ずりをしている……。
 いつも堂々としている大人の男なのに。何故、そんな思い詰めた寂しい顔で抱きついてきたのか、琴子は困惑した。
「柔らかくて優しいな。ずっとこうしていたい」
「どうしたの」
 指先で、胸元に抱きついてる彼の濡れた黒髪を琴子は撫でた。それだけで、彼がまたぎゅっと琴子に抱きついてくる。
「俺、独りぼっちなんだ」
 え。琴子は耳を疑った。
 そんなはずはないでしょう。後輩の篠原さんとか、このお店の仲間とか、それに沢山の人に慕われていることを最近知ったばかりの琴子には、英児がちょっとふざけて言っているとしか思えなかった。
「だよな。わからないよな、やっぱり」
 琴子の戸惑いと心の声が聞こえたかのような呟きが返ってきてしまう。
「まあ、いいや。頂きます」
 箸を持ち、食事を始める英児。
「うん、うまい。お袋さんのような手料理、本当にあの時久しぶりだったんだ」
「母も、手料理を食べて欲しかったみたい。貴方が綺麗に食べるから、とっても喜んでいたわよ」
「幾らでも食える」
 英児自ら、お重のおかずを取り始める。
 そのうちに、小アジの南蛮漬けを取ってくれ、ぱくりと食べてくれた。
「美味い。今日みたいな暑い日にはぴったりだ」
 続けて二〜三尾頬張ってくれたので、琴子も頬がゆるんでしまう。
「それだけ、私が作ったの」
 南蛮漬けの野菜をつまんだ英児が、『マジかよ』と琴子を見た。
「あのさ。この前の太刀魚の天ぷら、すごい美味かったよ。胡椒がふってあって」
「ほんと? それなら今度、ここで揚げたて作ってあげる」
「ここで作ってくれる……?」
 目を丸くして英児が止まってしまった。
「え、なに。どうしたの? いけなかった?」
 英児が箸をパシリとテーブルに置いた。
 そしてまた、あの遠い目で夜のとばりが降りた空を見つめている。
「お前の天ぷら、美味かったよ。また食いたい」
 嬉しそうに言ってくれたのではなく、哀しそうに言われた。寂しそうな英児の横顔に、琴子の胸がざわつく。
「俺、本当のこと言うと。突然だったけど、お母さんと琴子が用意してくれた食事の席に誘ってもらえて、あの夜、すごく嬉しかった」
 『俺、独りぼっちなんだ』。
 琴子に抱きつくために、ふざけて言っている? なんて疑ったあの言葉。やっぱり嘘じゃないと琴子は確信してしまう。
「お母さんも琴子も、お父さんが亡くなって寂しかったかもしれないけど。でも、二人が俺のために用意してくれたテーブルは、すげえ、あったかかったよ」
 ざわざわと波立つ琴子の心。琴子の胸元に抱きついてきた英児の顔を思い出し、琴子はまた泣きたくなってくる。
 一匹狼、でもその生き方に感銘して沢山人が彼のところに集まる。そんな見かけとは裏腹な英児の本心と姿。紛れもなく、彼は孤独を抱えていると琴子は知ってしまう。
 だけど、そんな彼がゆっくりと琴子を見る。そして腰に手が回り、そっと寄せられる。琴子も望まれるまま、彼の傍へと寄り添う。
「二人とも、イメージ通り。あったかい人で俺、なんか癒された」
「やだ。どうしちゃったの……」
 今度は本当に涙が浮かんでしまった琴子。
「なんでお前が泣くんだよ」
 肩先に頬を寄せていた琴子の瞳をみて、英児の手が頬に触れる。
「だって、英児さんがそんな顔をするから」
「してねーよ」
 なに強がっているのだろうか。確実に、琴子に哀しい目を見せて、琴子の肌のぬくもりが欲しいと抱き寄せて離さないくせに。
「私じゃない。英児……が泣いているんじゃない」
 思わず、琴子から彼を抱きしめた。英児がそのまま琴子の胸の中に埋もれる。 「泣かねえよ」
 口ではそう言う英児だが、そのまま琴子の胸元にくったりと頭を預けてくれる感触。
 それでも彼が琴子の胸で安らいだのは一時だけ――。すぐに琴子の胸を突き放すようにして、離れていってしまった。
 だけれど律した英児は、またいつもの男らしい黒目を輝かせ、今度は琴子が彼の胸にぐっと抱きしめられてしまう。
「琴子がいてくれたら、もう泣かねえよ」
 やっぱり泣いていたんじゃない。涙はなくても。心のどこかでこの人も泣いていた?
 聞きたくても、それを悟られたか『何も聞くなよ』とばかりに唇を塞がれてしまう。琴子になにも言わせないためなのか、息継ぎもさせてもらえない長いキス――。
「こういうところ。ほんと琴子はきっちりしているよな」
 やっと息をさせてもらえたかと思ったら、英児の手がまた琴子のブラウスのリボンへ――。
「俺がさっきほどいたのに。ちゃーんと結び直している。決して乱れた胸元のままにしておかない」
 俺、そんなお前が好きだよ。
 いつもの余裕の笑みに戻っている英児が、リボンの端をつまむ。
「琴子が綺麗に直した結び目を、俺が何度も台無しにして淫らにする」
 そう言って、また手が早い英児がさらっと水玉ブラウスのふんわりリボンをほどいてしまう。
「お母さんにちゃんと返すけどさ。今は、俺の琴子だから」
 え、なんか。やっぱり私、弄ばれていない?
 そう思うほど、いつもの手が早い彼に元通り。
 貴方、本当にどんな生き方してきたの?
 始まったばかりの恋。まだ全てを知らない恋人。でも……彼が好き。彼が泣きそうになったら、本当に胸が締め付けられたから。
 だから、彼の言いなり。ずるい。女は好きになった男の為になにかしてあげたいのに。そんな寂しいなら、私が傍にいてあげる。私が貴方をあっためてあげるって。
 だから。あの大きなベッドに連れて行かれ強く押し倒されても。琴子は彼に抱きついて、彼の好きにさせる。

 

 

 

 

Update/2011.5.29
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