××× ワイルドで行こう ×××

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 13.女の子はやらなくていい 

 

 母が確信犯なら、娘も確信犯。ある目的のために。
 その土曜日も、琴子は出かける。
「早いね。英児君のところにいくんでしょ」
 玄関でスニーカーを履く娘を見て、母が呼び止める。
「うん。ちょっとね。彼の部屋をあれこれ片づけたいから」
「大丈夫なの。営業中に彼のお店に行っても」
「うん。先週、また夕方に訪ねた時に、今度は顔見せというか挨拶をしておいたから」
 本当のことだった。初めて英児のお店兼自宅を訪ねた翌週も、琴子は閉店の時間に合わせて出向いた。今度は少しだけ早めに。スタッフが残っている時に会いに行った。だけれど、それも英児と『打ち合わせ済み』で、閉店後、店長の彼から『つきあい始めた彼女。時々、俺の二階の自宅に訪ねてくるからよろしく』と正式に紹介してくれた。
『大内琴子です。よろしくお願いします』
 事務員の男性は気前よく迎えてくれ、整備士の三人は、穏やかにニッコリしている男性、意味深な笑みで英児をからかっている男性、そして琴子が一番構えていたあのおじ様は案の定『ふん』と無愛想だった。挨拶はそれだけで終わり、店も閉まったので皆帰宅し、琴子は英児と共に彼の部屋で週末を過ごした。
 彼の部屋で、約束通りに手料理を作ってあげたり。相変わらず、ベッドだろうがどこだろうが部屋の中では薄着で気ままに愛し合ったり。そして夜遅いドライブに出かけたり。本当に今がその時とばかりに、英児と二人。平日の仕事が終わった後も待ち合わせ、とにかく会える時間は会って二人で過ごした。
 そして先週の日曜には英児が再び、琴子の母に招待される。庭の手入れが終わったお礼と称して。それから母が『英児君』と呼ぶようになった。
『今度、お母さんも一緒にドライブに行きましょう。俺、もっとゆったり乗れる車を借りてきますから』
 英児は母にもきちんと気を配ってくれた。母が寂しがらないように――。母と娘だけの家族だからと。
 その気遣いが、自分と亡くなった母親との経験を活かしているのだろうかと思うと、琴子は申し訳ないような、そして切ない気持になってしまう。
 そしてこの土曜も、琴子は英児の龍星轟宅へ向かう。
「行ってきます」
「遅くなるなら、連絡しなさいよ」
「はい」
 いい大人である娘がひとまずきちんと帰ってくるので、母もあまりうるさくは言わない。
 いや、一度だけ。『けじめ、ちゃんとしておきなしさいよ。大人だから多くを言わなくてもわかるわね』とビシッと釘を刺された。それがだらだらしたお付き合いにしないことだったり、あるいは順序が逆にならないようにしなさいとか、もしくは万が一逆になっても泣くようなお付き合いで終わらないよう、その時はけじめをつけられるようにしておきなさいなど、そんなことだろうと琴子は思っている。ただ母には『彼には結婚が決まった人がいたのに、よくわからないけど辛い別れをした過去があるようだから、不用意に結婚のことは言わないで』と、英児が再度の招待で夕食に来る前、母に前もって伝えてはいた。だから、母も本心は『最後はけじめをつけてくださいね』と英児にほのめかしたかっただろうに、それを言わず触れず、英児が気に入っている明るく気さくなお母ちゃんに徹してくれたのが娘の琴子にもちゃんと通じてきた。
 年頃の娘ならば、またそれもハラハラするだろうけど。大人になった娘だからこそ、判断は委ねても、『ここでまた躓いたら、もう後がない』なんて心配もしてくれているのだろう。
 急に現れた娘の恋人。それは母を助けてくれた男性。故に母は気に入っているだろうけど、そこは母としては複雑な心境のようだった。
「英児君に、よろしくね」
「うん」
 見送ってくれた母を後に、今日の琴子は、紺のポロシャツに、ベージュのサブリナパンツ、そしてスニーカーで出かける。いつもよりラフな格好で。
 今日も日射しが強い、夏真っ盛り。シャワシャワ賑わしい蝉の大合唱の道を歩いて、琴子はいつも通り、空港行きの路線へ向かう。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 夏の日射しが容赦なく降り注ぐ龍星轟の店先には、今日もピカピカの車が並んでいる。
 紺の作業服を着た男達が夏の熱気がこもるガレージや直射日光の店先で、黙々と作業に打ち込む姿。
 だが琴子は店先を避けた道を選び、今日は店の裏側へと辿り着く。そこから事務所裏と英児の自宅階段がある通路へはいる裏口へ、そのドアを開けて到着。
 暗いままの店舗兼事務所裏の通路。明かりが差し込んでいるのは、英児の二階自宅と店舗をつないでいるドア。そのドアが開いているので琴子はそっと覗く。
 事務員の男性がノートパソコンに向かっている。そして店のガラス壁の向こうで、車を洗車している作業服姿の英児を見つける。だがその英児を見つけ、一人ひっそりと微笑んで気を緩めていたら、そこで事務所のデスクに座っている作業服姿の男と目が合った。
 あのおじ様だった。半袖の紺作業着姿、腕を組んでデスクで書類を眺めているところ。
「おはようございます。お邪魔致します」
 こんな時間に訪ねてきてしまったので、あからさまなしかめ面を見せられる。『わかりやすい親父だよ』と英児から聞かされているから、琴子も心構えは出来ているのだが。しかし、そのおじ様が席を立って、こちらに来てしまう。
「タキ、呼ぶか」
 と、とんでもないっ。緊張で言葉にならず、琴子は首を振るだけ。
「いえ。キッチンのお掃除に来たんです。あまり使っていないみたいだったので。彼にはお昼まで知らせないでください」
 男一人暮らし、ほぼ外食という英児の生活。キッチンも最低限使えるだけのものしかなかったので、先週はものを揃えるのに大変だった。
「それ。なんだ」
 おじ様が、琴子がもっている紙袋とレジ袋を指した。
「あの、お昼に冷たいうどんか素麺でもと思って。家で沢山余って困っていたので、母にもたされました」
 ふうん。と、おじ様が顎をさすり、琴子を見下ろしている。
「つけあわせは」
 なんで、そんなに聞くの。琴子は眉をひそめるが、笑顔を保って。
「穴子と、茄子と、ユキノシタの天ぷらです」
「ユキノシタだあ?」
「庭にあって、私の家ではよく天ぷらにするんですけど」
「庭から取ってきただとー?」
 いちいち顔をしかめて反応するので、琴子は何を言われるのかとドキドキしてしまうのだが。
「いいな、それ。俺も食いたい」
 はい? 琴子は目を丸くし、すぐに返答は出来なかった。
「昼飯になったら、二階まで取りに行くな。武智ー、俺の今日の昼休みいつだ」
 事務員の『武智さん』に確認を取るおじ様。
「矢野じいの今日のシフトは、十二時半からかな」
 バインダーのシフト表を見た彼が、なんだかちょっと笑いを堪えながら答えている。
「ということだ。その頃、行くな」
「は、はい」
 それだけ言うと『矢野さん』は、背を向け店の外に出て行ってしまった。武智さんだけがクスクスと笑っている。だけど彼も琴子には話しかけてはこない。だから、琴子も邪魔にならないようそっと二階に上がった。
 二階に上がって、琴子はバッグから鍵を出す。『合い鍵』だった。英児がすぐに作ってくれた。それで彼の自宅に入る。
 入ってすぐに、琴子はまだ終わっていないキッチンの整理に掃除をする。先週のうちにだいぶ琴子が使いやすいように道具も材料も揃えた。あとは使い勝手。それを済ませるとすぐにお昼時間が目の前。
 英児に内緒で来たから、英児のシフトがわからない。揚げたてじゃなくてもお昼があるのは喜んでくれるだろうと思ってはいたが、それでも矢野さんに頼まれてしまったのでその時間に合わせて調理開始。
「暑い〜」
 キッチンの窓や、部屋中の窓を全開にしても暑い夏の日。
 クーラーもあるけど、この季節、すぐに冷房病になるので、必要以上なるべく当たらないようにしている。それでも天ぷらをあげ、大鍋に湯を沸かしての調理は汗だくになる。
 料理をしながら、琴子は『何故、急に食べたいなんて』と考えていたが、どうにもわからないまま。
 英児の店の外周には、土地を拓く時に残してもらえたのか大きな団栗の木や百日紅の木がある。団栗の木陰から時折ざわざわとした風が来て、少しだけ涼しくしてくれる。その側で桃色の百日紅の花も揺れていた。遠く蝉の声。どこか昔懐かしい風の音と風情が暑さを和らげる。元の土地の持ち主が植えていたのだろうか。
 天ぷらを揚げ終わった頃だった。
「琴子!」
 リビングに作業着姿の英児が現れた。
「なんだよ。来ているなら来ていると言ってくれてもいいんだからな。てっきりまた夕方に来るのかと」
 あ、結局。教えてくれたんだなと琴子は思った。それとも武智さんが教えたのだろうか。
「お昼になったらここに戻ってくることわかっていたから。言わないでとお願いしたのよ」
 だが英児はとても嬉しそうに出迎えてくれる。彼らしく、琴子が何をしていようがすぐに駆け寄ってきてすぐに力一杯抱きしめてくれる。そして、キスも。琴子が何をしていても……。
「やだ、もう。料理中」
 でも琴子も。いつもあっという間に溶けあってしまう。菜箸を手探りでどこかに置くと、琴子も英児の背中に抱きついて思いきり唇を愛した。そして英児の手も、もう『お馴染み』。ポロシャツの下からするする入って、ランジェリーの下に潜ってあっという間に柔らかく乳房を揉むのも。
 互いの身体から湿った熱を感じる。真夏の汗をかいた身体。そして肌も汗でじっとり湿っている。それでも英児の汗で濡れた黒髪の生え際に琴子はキスをして、そして英児は汗ばむ琴子の肌を撫でている。
 今日も二人で匂いを嗅ぎ合って、それで再会を噛みしめる。窓からざざざと団栗木陰の涼しい風。いつまでも離れず口づけ、熱くなる一方の二人を冷ましてくれているのか、諫めてくれているのか。
「今日は、ラフなんだな」
 言葉を交わしても、二人は互いの唇をついばみ、愛撫しながら……。
「うん。お掃除したかったから」
 ――と言う実は『建前』。実際は他に目的が。
「つまんないな。いつもの女らしい琴子を楽しみにしているのに。家事用の着替え、この部屋に置いて行けよ」
「そうね、そうする」
 英児の手がじっくり背中を撫でている。でも、その内に乳房を揉むんで楽しんでいるだけかと思ったら、いつの間にかポロシャツを背中も胸元も半分以上めくりあげていたので琴子はびっくり。
「もうー、やめて」
 そこでやっと琴子から離れ、脱がされるのではないかと思うほどめくられていたシャツの裾を引っ張り下げた。英児ならやりかねない。そこまでしたら琴子の両腕をあげさせて、さらっと脱がして抱きついて、あちこち吸い付いてとか――。絶対にやりかねない。今日まで既に何度かやられていた。
 そんな怒る琴子を見て、英児はニンマリ見下ろして笑っているだけ。もうホントに『この悪ガキ』と言いたくなるこの頃。
「俺の昼休み、一時半からな」
 悪戯して悪かったとばかりに、耳元にちゅっと口づけを残す英児。それだけすると、今度は彼の方が潔く背を向け、さっさと部屋を出て行ってしまった。
 愛してくれる時は集中的に濃厚にべったりというくらいの彼だけれど、いざ方向を変えると、その気持ちの切り替えも素早い。
 リビングの窓から店先を見下ろすと、揺らめく熱気の中、車の洗車を始めた英児の姿が。その横顔は『滝田店長、滝田社長』。この店を守る男。
 土日で、龍星轟にやってくる車もよく入ってくる。来店してきた顧客にも、気の良い笑顔で出迎える彼も格好良くて、琴子は暫く眺めて微笑んでいた。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 その時間が来て、琴子は準備を完了させる。
 ピンポン。チャイムが鳴ったので、わかってはいるけどインターホンに出てみると矢野さんだった。
 キッチンに用意していた『冷たいざるうどん』。それを天ぷら盛りと一緒に盆にのせ、琴子は玄関に出る。
「おー、美味そうだな」
「冷たくしてありますから、温まらないうちにどうぞ」
「おう。頂くわ」
 本当に嬉しそうに盆を受け取ってしまう。どうして『食べる』だなんて言い出したのだろうかと、琴子は腑に落ちない。だが、向こうも向こうでなにやら琴子に言いたいことがあったようで、盆をもつと急に言い出した。
「今日はどうした。本当にタキの部屋の掃除だけで、こんなに早く来たのか。ただ昼飯作りの来たのか。平日も如何にもOLのお姉ちゃんって感じの可愛い格好をしてタキが連れてくるのに、今日はそんな格好で」
 平日、三好堂印刷まで英児が迎えに来てくれ、その後この龍星轟宅へ。その時、ガレージで一人残業をしている矢野さんに何度か出会ったことがある。その時も無愛想だけれど、プライベートを楽しむ店長の英児がすることには我関せずという素っ気なさだった。
 だけど、案外、琴子と付き合う英児の様子を心配しているのでは? そうでなければ、今日だって平日の残業だって、琴子のことそんなに見ていないと思う。しかも。英児は気がつかなかったのに。おじ様には『どうしてこの格好で、日中に訪ねてきたか』を気がつかれている。琴子は驚き絶句する。
「なんだ。店の手伝いまでしたくなったとか言うなよ」
 ドッキリ、琴子の心臓が固まる。『図星』だった。
 今日、琴子の目的はそれだった。
「タキタの女だって、お手伝いも出来るいい女だって、見られたいのか。誰に。自慢の彼女になりたいか」
 今度ばかりは冷めた目つきで言われた。この矢野という男性からは、英児と同じ匂いを感じている琴子。きっとこの人も昔は英児のようにツッパリながら車を乗り回していた狼のような人だっただろうと。だから怖くはないけど、噛みつかれる瞬間というのがうっすらと感知できている。それがきっと『俺達男の世界に、甘い女が踏み込んでくるな』ということ。
 それに琴子は改めて思った。英児と付き合いを続けていくには、この矢野さんとの関係は無視できないと。
 だから、琴子も心積もりを整えてきたので、恐れずに言い返す。
「いい彼女に見られたい訳じゃなくて、ただ、私も車に触ってみたいだけ」
「不純だなあ」
 殊勝な心がけに聞こえてしまったかもしれない。だから『良い子に見られたいための、良い子ぶった回答、とどのつまり不純だな』と言われている。でも、構わない。琴子もそれぐらいの目で見られることは予測してきた。だから、気持のままを口にする。
「私、初めて走り屋の車に乗ったんです。常にピカピカの車、心臓のエンジンまで大事にされている。その魅力とはなんなのだろうか、と。そんな車のことを知りたかったり触りたくなったり」
「それなら、英児に頼んでみろよ」
「頼みました。『私にもワックスがけを教えて』と。でも。彼が聞くと『そんな女の子がやらなくていいから』と、笑って流しちゃって」
 矢野さんは一時黙って、ふっと悟りきったように鼻で笑う。
「適当に笑って流しておいて、本当は誰にも触って欲しくないという気持もあるかもな」
 意地悪な言い方だと思った。車好きの男が『彼女にも触って欲しくない大事なもの』と言う意味をほのめかしているのだから。
「そうですね。それが本心なら。諦めます」
 流石の琴子もぶすっとして答えてしまった。別に車と張り合いたい訳じゃないし、車を知って彼にますます愛されたい訳じゃない。ただ、琴子は……。いや、もうやめておこうと思う。
「邪心でしたね。失礼致しました。麺がのびます。早く召し上がってください」
 玄関先で一礼をし、これにて撤退。琴子の意気込みも玉砕したようなので、今から本当にのんびり掃除をすることにする。
 そう思ったのだけれど。
「じゃあさ。俺と試してみるか」
 矢野さんが、ニヤリと笑った。
 試すってなに? 琴子は首を傾げた。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 矢野さんの食事が終わってすぐ、琴子は事務所に呼ばれる。
「これ、俺のだけど我慢しな」
 あのワッペンが縫いつけられている紺色の作業着を手渡される。そして作業員の彼等が被っている龍星轟のキャップ帽まで。
「龍星轟の店頭に出るからには、たとえ、にわか作業員でもきっちり龍星轟の姿をしていてもらわないとな」
 なるほど。気持は『雇われた新入り』という本気の気構えで行けということなのだと、琴子も言い聞かせる。
 そして言われるまま長袖の作業着を着た。羽織ると、ふわっと英児と似た匂い。男独特の匂いに煙草。さすがにトワレの匂いはしなかった。そして大きい。
「袖、めくりな。長袖で暑いだろうけど我慢しな。少しは日焼けしなくて済むだろう」
 そんな気遣いもあったようだった。なんとなく矢野さんというおじ様のことがわかってきた気がする。でも、今からすることって……大丈夫なの? それに『試す』てなにを?
 事務員の彼は、矢野さんがすることだからと、ちょっと困った顔をしていてもなんにも言わずに、仕事をしているだけ。
 そのうちに矢野さんは、英児の社長デスクの裏に回り、壁際にある鍵が沢山ぶら下がっているボードから何かを選ぼうとしていた。
「そうだな。R32(アールサンニイ)でいいか」
 その鍵を手にすると、やっと事務員の武智さんが呟いた。
「怒るんじゃないっすか。流石に、勝手に動かすのは。そこは『社長の所有物』なんだから」
「そうかもな。まあ、アイツの度量っつーのかね。ちょっと俺も興味あるわ。最近、丸く収まりすぎてちょっと気になっていたんだ」
「丸く収まって上等じゃないっすか。ヤですよ、俺。タキさんと矢野じいがやり合うの、困るんだから」
 そして彼が言った。
「親父と息子の喧嘩みたいに派手なんだから。最近は『どっちも大人になってくれて』平和だったけど。二年前かな。殴り合って店のガラス割るとかカンベン」
 親子みたいな関係? それにそんな男っぽい派手な喧嘩してしまう程の仲!? まだよく知らない琴子は驚かされる。
「うっせいな。アイツが生意気なんだよ。いつまで経っても!」
「師弟だから。師を超えたい男気ってやつなんじゃないのかなあ」
 『師弟』!? 琴子は驚いて矢野さんを見てしまう。そんな琴子の視線に気がついた矢野さんも、キャップのつばをぐっと降ろして目線を隠してしまった。
「矢野さんは、元々、タキさんを雇っていた腕利きの車屋だったんですよ。タキさんの整備士としての育ての親。タキさんが店を持つと決めた時に、自分の店を閉めて『雇ってくれ』と言い出した変わり者ですよ」
 武智さんが教えてくれたことに、琴子はますます驚きただただ矢野さんを確かめるように見てしまう。
「うるさいな。俺はもう経営に疲れていたんだよ」
「でしょうねえー。整備士としては凄腕でも、そんだけ無愛想で頑固親父じゃあねえ。その点、タキさんの方が人脈もコミュニケーション力もあったもんね」
 結構、ずばずば言う武智さん。だが矢野さんは黙って何も言わない。武智さんがさらに続ける。
「という経緯で。いま、矢野さんはうちの経営アドバイザーみたいなもんで、社長の補佐役、専務をしてもらっています」
 ――矢野専務!?
「でもね。矢野じい。そればっかりはほんと、覚悟した方が良いよ。聞いてから動かしてよ、頼むよ」
「お前、黙ってろ。武智」
 矢野さんの目線ひとつで、武智さんがびくっとして黙ってしまった。
 だが琴子。この関係を聞いて、そして武智さんが案じている様子を見て、不安を覚えた。
「あの、その、もしかして、私のお願いって。あの、すごく、とんでもないことなのでは」
 激しい師弟の関係を知る者が『それだけはやめてくれ』と言いながらも、雇われ主のタブーに『師匠』という特権で動こうとしている矢野さん。
 だが、その矢野さんに既に睨まれていて、琴子の背筋も伸びた。
「姉ちゃんよお。今更、やめるって言わないよな。その程度の女か。タキタの女は。お前、英児の車にこれから振り回されたくないから、そこ『押さえておこう』と思ったんだろ」
 なんだかんだ琴子が言っても、そう、矢野さんが言うとおり。『車は別格』の英児。『彼の女になるなら、車に乗せられているだけではダメ。こっちから車に乗り上げないと』と思うことが多くなった琴子。運転免許をもって運転できるとか、そういう物理的な問題じゃない。『スピリット』の問題。英児の心も運転席に常に乗っている。それなら琴子の心も助手席ではなく運転席にありたいといえばいいのだろうか。そこまではまだおこがましくて言えやしなかったが、でも、矢野さんに心の底の底まで見透かされている。
「英児の真の女になるなら、肝を据えな」
 鋭いけど、熱い目線。英児と同じだと琴子は思った。
「行くぞ。俺が教えてやるから、来い」
 琴子が返事もしないうちに、矢野さんは英児の車のキー片手に外に出て行ってしまう。
 それは琴子の答えなどわかっているとばかりに。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 矢野さんと龍星轟の店先に出る。直射日光の真昼。コンクリートから照り返す日光がまぶしい。
「客の車は流石に試しには使えねーから。タキのアールサンニイをもってくるから待ってな」
 客の車は勿論だけど、社長の車だって『お触り厳禁』のようなのだから、同じようなもの。
 英児さん。怒るかな。
 琴子はふと不安になったが、すぐに首を振る。
 なんだろう。琴子の脳裏に、夕暮れの中、たった一人でワックスがけに夢中になっていた英児の姿が焼き付いていた。
 この英児の自宅に来て、二人で過ごすようになってから、琴子はただ可愛い可愛いと愛されるだけで良いのだろうかと思い始めていた。
 しっかり者の頼りがいあるお兄さんだけれど、本当はちょっぴり寂しがり屋の英児。そんな彼のことを、琴子はもっと知りたい。あの夕の日、夢中でワックスがけをしていた彼、あの時の彼と同じ気持ちになってみたい。私も……。そうするには、彼と同じように車と向き合ってワックスをかけてみたらどうだろうかと思っていたのに。英児は『しなくていい』とさせてくれなかった。
 英児はいま、整備用のガレージで作業中。矢野さんが向かったのは、その隣のガレージ。営業中は開いていて、そこには預かっている顧客の車が駐車されていたり、英児が所有している愛車が数台停めてある。
 アールサンニイとは、どの車なのだろう?
 数台所有している英児に一度ガレージで見させてもらったが、琴子が聞く限り『アールサンニイ』という車はなかったのに。と思い出す。
 やがて、その車がギュウンとエンジンを唸らせながらガレージを飛び出してきた。
 そこに現れたのは、あの真っ黒なスカイライン。
 店の前にいる琴子の目の前、そこへ素晴らしいハンドルさばきで、ぐんぐん方向転換をさせバックで停まった。
 運転席にいる矢野さんが、一瞬、英児と重なった。レトロな幻が現れる。サングラスにリーゼントのようなオールバック、そしてすごい柄模様のシャツを着ていたレトロなヤンキー男。その昔、このおじ様はそんな風貌だったのかもしれない。
 矢野さんが、バンと運転席のドアを閉めて出てきた。
「この車のこと。アールサンニイて言うんですか」
「おう。日産スカイライン八代目。R32GT−R。通称R32」
 何故か、矢野さんが得意気な笑み。そしてやっぱりおじ様もにっこりした笑みでそのルーフを撫でる。
 その男達の顔。この店の男達のその愛おしそうな顔。それを琴子は知りたいだけ。そのままでいいから。ずっと車を愛して良いから。でも教えて。なんでそんな顔をするのか。
 だが恐れていたことは起きる。
 ガレージから、案の定、英児がやってきたのだ。
「専務、なにするつもりなんだよ」
 あの英児が本気で怒っている顔。流石に琴子もヒヤッとする。
「姉ちゃんがここの仕事を覚えてみたいだって」
 え、そこまで言っていないけど! 矢野さんが言い出したことに、琴子はびっくりして言い改めようとしたのだが、隣にいる矢野さんが意味ありげに琴子に着せた上着の裾を引っ張って、目配せをしてくる。
「琴子、なんのつもりだ」
 戸惑う英児が琴子を見たのだが、彼に問いただされる前に、矢野さんが遮ってしまう。
「まあ、いいんじゃねえの。『新入社員を雇う』予行練習だと思えばさあ」
 にやっと、からかうように矢野さんは笑ったのだが。英児がぎらっとした目線を返してきた。
 師匠も負けない。ガンを飛ばす『弟子』に同じくギラリとしたガンを飛ばしている。
 似たもの師弟の間に、火花が散った。
 その時、琴子も感じ取った。『あ、もしかして。私、矢野さんに利用された?』と。
 師弟はなにやら『別問題』で対立しているようだった。

 

 

 

 

Update/2011.6.5
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