××× ワイルドで行こう ×××

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 21.ぜってえ、許さねえっ。 

 

 心なしか暑さが和らいで風が心地よい。蝉の鳴き声も変わった。この日、琴子は母と共にバスに乗っていた。
「ねえ、琴子。別にそんなに頑張らなくてもいいよ。やめちゃっていいんだからね」
「いや。絶対に嫌」
「英児君はなんて言っているのよ。お母さんは向いていないと思うのよ」
 最近になって気がついたのだが。母が娘のことで困ったことがあると『英児君はなんと言っているの』と、まるで琴子という小さな娘を預けている大人みたいに言うことがあると……。それだけ彼を信頼してくれているのだろうが、離れている今はちょっと辛かった。
 だけれど。もしかすると母も予感しているのかもしれない。あんなに毎日会っていたのに。急に会わなくなった二人。何かがあったに違いないと。それでも素知らぬふりをしてくれているような気もする。
 母には『盆明けで仕事が忙しいみたい。私も今、やっていることあるし……』と伝えているのだが。その母が『やめてもいいのに』と言っていることが、『今、やっていること』だった。
「英児さんには内緒でやっているの。ばらしたらお母さん、私、家を出て行くからね」
 勿論、大袈裟な釘刺しに過ぎない。そして母も娘が大袈裟に言っているだけと判って、『あーはいはい』と呆れた横目を流してくる。
 バスは街の隅にある大学病院へと向かっている。今日は母の定期検診。それに毎回、付き合っている。
 大学病院での診察は時間がかかる。予約していても待たされる。母の足も指先も慣れてきただけで、良くはならない。でも変わったことがある。
 家に閉じこもって、何事も諦めがちだった母がリハビリを始めたことだった。そこでサークルを見つけて、同じような境遇の人たちと交流を持つようになった。以前通りの、なんでもやりたがり外に行ってしまう母に徐々に戻ってきている。
 お母さんも独り立ち。あんたと英児君に心配かけさせたくないからね。
 そう笑って始めたことだった。英児もそれを知っていて、とても喜んでくれたところだったのに……。
 昼前に診察を終え、母と並んで院内を歩く。以前は母を支えながら歩いていたが、母が『もういい』と言うようになり、琴子は傍で付き添っているだけだった。
 診察も会計も終わり、一階のロビーを歩いていると母が言った。
「お昼ご飯、ここの食堂で食べていこうか」
「いいわね。こういってはなんだけど。あそこのオムライスが美味しかったり」
 この大学病院で父を看取った。この病院に母も入院した。そんな苦難の中、琴子がよく通った食堂。そんな大変な時だったけれど、だからこそ、そこの食事が美味しかった。
 そのオムライスを食べて、一人奮い立たせていた苦い思い出があるのに。また食べたいだなんて……。
 そんなしんみりしている娘を母が優しい笑みで見つめていた。
 いつしか失ってしまったと思っていた、柔らかくて暖かい手が琴子の背を撫でている。
「ごめんね、琴子。辛い思い一人でいっぱいさせちゃったね。でもね。お父さんもお母さんも本当に助かったよ。だから、自分の好きなこと。これからいっぱいしなさい」
 そんなつもりはなかったのに。やはり、今はとても自分が弱くなっていると琴子は実感した。涙がこぼれてしまった、それどころか止め処もなく溢れてくる。
「琴子……。あんた、やっぱり英児君と」
「大丈夫。ちゃんと会う約束してあるから」
「何があったの……」
 いっぺんに感情が溢れ出した涙声では、何も言えず琴子は暫くはただ首を振った。
「……ほんと、だいじょうぶ。英児さん、なにも悪いことしていないから。むしろ、今の彼とっても大変で会えないの。私、彼のこと大好き。彼も、私を大事にしてくれるし……。たくさん、愛してくれたんだもの。だから私、愛してもらえたから頑張れるの……。そんな気持ちにさせてくれるほど、愛してくれたの」
「そうなの、それならいいけど」
 逆になっている。いや、元に戻った。力を無くした母にはもう夫がいないから、娘の自分しか支えてやれないと思ってそれを負担にも思った。でも……。娘が弱くなれば、今度は母が大きく受け止めてくれる。きっと、きっとその繰り返しが出来るのが『家族』なのだろう。母が戻ってきてくれて、琴子は初めて知る。なにも無くしたわけでもなかったのだと。
 それなら英児のことも一緒。家族になろうと決意したなら同じ。あの夜、彼はどん底にいる母と琴子を助けてくれた、あの底から連れ出してくれた。それなら、琴子だって。今度は琴子が英児を助けてあげなくちゃ。『家族』なら……。
 母も、それ以上は深く事情を探ろうとはせず、ただそっと背中を撫でてくれる。あまりにも娘が泣き崩れてしまったので、娘を人の目から守ろうと気遣って中庭まで連れて行ってくれたほどだった。
「ここで座っていなさい。お茶でも買ってくるね」
 ベンチに座ると、母が杖をついて中に戻ってしまった。琴子も『お母さん、一人で大丈夫』とはもう聞かなかった。
 母も失ったものがたくさんあって、身体が元に戻らなくても――。もう気持ちは元に戻ることが出来たのだろう。琴子ももう面倒がかかる母ではなく、『私のお母さん』がそのまま戻ってきたと感じているから甘えた。
 『泣きたい時に泣いておきな。今日の涙は今日のうちにな』。
 そんなこと、言われたっけ。涙が止まって、琴子は思い出していた。何日分、溜め込んでいたのかな。今の涙。でもあの時と一緒、なんだかざああっと流れていった気分。
 和らいだ日射し。青空は残暑の色合い、鰯雲。それを見上げていた。
『お母さん、大丈夫』
 中庭、向かい側のベンチにも力無く座る母親を支えている娘さん。
 やせ細った上品な奥様といった感じの母親に、……琴子と同じ三十代か、でも大人っぽいお洒落なパンツルックの娘さん。
『疲れたでしょう。なにか冷たいもの買ってくるね』
『ごめんね、ちえり』
 ――ちえり?
 はっとした時には、その娘さんがこちらに歩いてくるところ。あの日、市駅のデパートで見たそのままの女性が、格好と雰囲気は違うけど、颯爽と歩いている女性がこちらにくる。
 まさかとは思ったが、黒髪をおろし凛とした顔のその人を確かめ、琴子は茫然とした。
 だが、その女性と目が合う。……彼女も立ち止まった。そしてきっと琴子と同じ顔をしていると思う。驚きで動けなくなる顔。
「どうして」
 彼女からつぶやいた。そして琴子は顔を背ける。正直、言葉など交わしたくなかった。
「琴子、ただいま」
 座っているベンチの後ろからそんな声。杖をついた母が懸命に娘のところに向かってくるところだった。
 また、彼女の表情が……。今度は青ざめた。
「貴女、お母様……」
 自分だけじゃない。『自分より幸せそうな新しい彼女』もまた同じ。親が煩っている。それを知って何を思ってくれたのか。
 そんな彼女がさらに聞いた。
「貴女が付き添っているの? お父様は……」
 琴子は唇を噛みしめる。彼女の場合、生きていても非協力的な父親。では貴女の父親はどうしてくれているのか――そう聞かれているのだと知って。『お父さんが協力してくれるだけいいじゃない』とでも言いたそうなその質問が、まるで不幸比べのようで嫌だったが答える。
「父は三年前にこの病院で看取りました。翌年に母が。母は一命を取り留めましたが後遺症が、今日はその定期検診です」
 背中に芝の上を杖をついて辿り着いた母の気配。だから琴子は口をつぐんだ。
「琴子、お知り合い?」
 どのような知り合いか。母には絶対に知られたくなかった。
「うん。デパートのショップの店長さん」
 咄嗟に出たのがそれだった。しかし母は娘が趣味のように服を買いに出かけることを良く知っているので『ああ』と納得してくれたようだった。
 だが、千絵里さんは琴子の母を見て唇を震わせている。そこから動かなくなってしまう。
「……お母さん。店長さんもお母様の付き添いなんですって」
「あら、そうなの」
 母の目線が向かいのベンチへ。あちらのお母様も訝しそうにしていて、でも娘の知り合いと思ったのか、こちらに軽く会釈をしてくれた。
「店長さん。お母様、お大事に」
 琴子は立ち上がる。
「お母さん、お腹空いちゃった。行こう」
 母が抱えている紙パックのお茶を琴子が持ち替え、母の背を押した。
 語ることなど何もない。話してほしいことも、話したいこともない。元より無関係。あちらから強引に関わってきたのだから。
 それよりも琴子は驚愕に固まる彼女が、後先考えずに、『自分だけが納得できる行動』に出ることを恐れた。だから早くここから母と離れたい。
「待って。あの……」
 来た。そう思った。彼女がそれをしてしまう前に、琴子から振り返る。
「店長さんもお大事に」
 動揺している様子の彼女に、琴子はこの上なく険しい眼差しを向けた。
 ここでやらないで。ここで『謝らないで』。貴女が申し訳ない気持ちいっぱいで謝りたくてどうしようもなくても、『母の目の前』で謝らないで。
 琴子の母は訝しく思うだろうし、彼女の母も心配するだろう。
 謝れば、その心苦しさが軽くなる? それも自分勝手というもの。『心苦しくても、何事もなく取り繕える嘘』を背負える覚悟を持って欲しい。
「……貴女も。お母様、お大事に」
 通じたのだろう。その言葉に代え、彼女が頭を下げてくれた。
 肩越しに会釈を返し、琴子は母と食堂に向かった。
 食堂で母と共にデミグラスソースがけのオムライスを頼んだ。
 琴子の隣で母が妙なため息をこぼしている。……察知されてしまったかな。英児も言っていた。どんなに娘が笑顔で取り繕ってもお母ちゃんにはなんでもお見通しだって。でもだからこそ、笑っていれば大丈夫だとお母ちゃんも安心してくれる――と。
 まだ涙が滲みそうだった。本当に彼にもらったものが、離れていても琴子を支えてくれているから。
 お待ちかねのオムライスがやってくる。
「ここのオムライス、ひさしぶり」
 でも、どうしてかな。普通の味になってしまった気がして。
 苦しいからこそ、なんでもないものがとっても大事に思える、感じることが出来る。そんな一口だった。
 だから琴子は思った。
 ――『会いに行こう』。
 琴子がいてまとまる話もまとまらないだろうと、離れていたけれど。彼女がいない時間に会いに行こう。五分でも良い。あの人を独りにしないで、傍に行こう。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 ただいま休暇中の琴子。母と自宅に戻って夜を待つ。夜遅く、本当に英児が寝てしまうような夜中に会いに行こうと思った。たぶん、彼女も帰っているだろう……。いるかもしれないけど。
 それに心配なことがひとつある。英児の携帯電話を破損させたほどの荒っぽさ。琴子の持ち物もなにかされているかもしれない。置きっぱなしにしてきた小物や服はどんなことをされても良いけれど、あの『ジャケット』に何かされていたらそれだけは絶対に許さない――と思った。
 彼女もどうするのか。琴子と偶然会った後の夕方、また琴子の境遇を知った後。あの顔で、龍星轟でまた再会するのだろうか。
 夕方、携帯電話が鳴る。着信音がびっくりするメロディで琴子は思わず電話主の表示を確かめてしまう。
 一瞬、迷った。でも、思うところがあり琴子は電話に出てしまう。
「はい」
『俺、元気だった』
 そっとため息をこぼす。今更、なんだというのだろう。でも琴子には、この彼が今になって連絡してきたのは何故か、なんとなく予感していた。
「なに。雅彦君」
 年明けに別れたデザイナーの彼だった。
『いや、どうしているかなと思って』
 電話だから、琴子はあからさまに顔をしかめた。
「うん、相変わらず。普通に過ごしているけど」
『会えないかな。会社の前で待っていたけど、昨日も今日も休んでいた?』
 三年も付き合ったのに。この時期にまとめて休みを取って、貴方と一日中一緒に過ごしたり、ドライブに行ったり旅行したり、買い物したりしたじゃない。だから今年も休んでいると気がつかないの? 今更だけれど、改めてがっかりしてしまった。
 まあ、確かに。そんな人だった。彼は女に付き合わされている――といった感じで、はしゃいでくれたのも最初の一年だけ。あとは面倒くさそうにして、とにかく家にいてデザインに没頭したいという人だった。それほど好きなくせに、ぱっとしなくなった業績。気持ちの切り替えが上手くできない……不器用な人。三十を過ぎていた琴子は、それに気がつきながらも見てみないふりをした。互いにもう冷めていても。そう思って傍にしがみついていたのは、たぶん……彼ではなくて琴子の方。だから千絵里さんのしがみついてしまった気持ちも分からないでもない。
 そんな無愛想で不器用で世渡りが下手な彼がわざわざ連絡してきたのが何故か。元は付き合っていた彼女だからこそ、それが分かってしまった琴子は切り捨てることが出来なかった。
「夕食を済ませてからならいいわよ。夜、迎えに来て」
『わかった。あの煙草屋の前で待っている』
 あの煙草屋。琴子の胸が切なく締め付けられる。そこは付き合っていた当時、この別れた彼との待ち合わせ場所だった。彼がそこで待っている間にピースを買っていたから、あの自販機で買おうとした。そうしたら、その時、黒い車の兄貴と出会った。そんな場所……。
 空がすっかり暗くなり、琴子は出かける。雅彦と話し終えたら直ぐに龍星轟に向かう心積もりで家を出た。
 煙草店へ向かう国道の歩道。午後から急に湿度が高くなったように感じる。夜になっても涼しく感じていた風が一転、湿っていた。
 煙草店の前に、深緑色のミニクーパーが停まっている。
「ひさしぶり」
 そこからお久しぶりの男性が現れた。
 最後に会ったのは、ジュニア社長に契約解除を申し出てきた時。あれ以来。あのとき、目も合わせられないほど冷たくすり抜けて去っていった男性が、今はかつての笑顔。
「元気そうだね」
 元気じゃないわよ。なんにもわかっていない。
 でも無理もないかと思いながら、琴子からさっさと助手席に乗った。彼が慌てて運転席に戻ってくる。
「そこのカフェでいいわよね」
「うん、よく行ったな。アイスコーヒーが美味いもんな」
 少し走ったところに、老舗の珈琲店がある。二人でよく行った店だった。
「琴子、そこのミルフィーユが好きだったよな」
 もう、どうしてくれよう。そのミルフィーユは苺ミルフィーユで春限定。毎年三月になったら覚えておくよう気をつけて必ず出向き、その期間中に何度も食べに行く。そういうことだったのに。
 ――やっぱり、ただ付き合っていて上の空だったんだわ。私のこと、自分から見てくれていなかったんだ。と、痛感した。
 その珈琲店に入り、良く座った奥の角席に落ち着く。向かい合って座る位置も変わっていなかった。
 オーダーをして落ち着くと、彼が言った。
「あれ、ミルフィーユなかったなあ」
「あれ。春しかでないから」
「え、そうだったのか」
 やっと気がついたのかバツが悪い顔。今日も白いシャツの襟を立て、さわやかなカジュアルトラッド。柔らかそうな茶色の髪にくるくると流行のパーマをかけて、デザイナーらしくファッションには敏感でソフトな印象でまとめている。お洒落で繊細で、その気になれば女性を喜ばせるお洒落なエスコートも出来る。だから琴子もすぐに好きになってしまった。でもそれは『マニュアル』だった。そして琴子も悪くは言えない。その『マニュアル』をしたかったのだから……。
 でも今となっては物足りない。あまりにも、強烈すぎたから。なにもかも。
 窓辺の席、まだ薄い闇の空。だけれどまた山間から黒い雲が覆い被さろうとしていた。蒸し暑かったのは雨が降る前兆だったようだ。そんな空を眺めていると、気まずそうに黙っていた雅彦がやっと口を開いた。
「お母さん、元気か」
「うん。だいぶ気持ちも落ち着いたみたいで、いまリハビリにも通い始めたの」
「良かったじゃないか。家から出ないといっていたから」
 彼のとってもほっとした顔。でも琴子はそれすらも……。何故、母が前向きになったのか。貴方、分からないでしょうね。という苛立ち。
「だから安心して。なんとか母と二人で元通りにやっていけそうだから」
 その途端だった。彼が原稿を持ち歩いているバッグのポケットから黒くて小さな箱を、意を決したように琴子の目の前に置いた。
 しかもその蓋を開けた。ビロードの高級そうなその黒い箱、そこから貝の中から出てきた宝石のように、きらりと輝きを放つものが出現。
「お前がいなくなって、俺、ぼろぼろなんだ。戻ってきてくれないか。やっぱり琴子じゃないと駄目なんだ。結婚しよう」
 はい?
 思っていた『用件』とは、激しくかけはなれていて予想が外れたので、琴子はあんぐりと口を開け言葉が出なくなった。
「お前が苦しい時になにもしてやれなくて悪かった。俺もあの頃は仕事が上手くいかなくて……。これからはお前と一緒にお母さんのことも協力していくから」
 受け取ってくれ。
 彼が目の前で頭を下げた。
 え、別れてからそんなに私を恋しく思ってくれたの? やっと必要だって思い直してくれたの? 
 一瞬、そう思いかけた。だが琴子は『これからはお母さんのことも……』と雅彦が口走った時に目が覚める。これからじゃない、琴子がやってほしかったのは『あの時』なのだ。
 でも、初めてだった。大粒のダイヤモンドの指輪。それが琴子のためにと光り輝き、目の前にある。それは幾度となく夢見てきた光景ではないか。だから思わず、その小さな箱を手に取ってしまう。雅彦がそれだけで、ほうっと胸を撫でおろし嬉しそうに笑った。しかもビロードの箱に触れた琴子の手を、すかさずぎゅっと正面から握りしめてきた。
「琴子、ほんとうにごめんな。なにもできなかったこと反省しているよ」
 唖然としている琴子の目の前で、彼がおかしなことを言い出した。
「俺、仕事を頑張るから、琴子は仕事を辞めて俺の傍で手伝って欲しいんだ」
「え、仕事を辞める?」
 なに勝手に言いだしているのだろう? そしてついに、この男も言った。
「あのさ。三好さんに会わせてくれないかな。琴子と結婚することも話したいし」
 じわじわと底から沸き上がってくるこれは、なに?
 そして『当たっていた』。やはり彼は彼、琴子がよく知っている彼だった。
 握りしめられている手を、琴子はさっと離した。ダイヤのケースも手放した。
「なにそれ。つまり、もう一度、うちの仕事をしたいってことでしょ」
「違うよ。三好社長は琴子を大事にしているだろ。だから挨拶をしてから、琴子を引き取りたいんだよ」
「嘘。それを理由にしてもう一度、ジュニア社長に会いたいだけでしょ。出戻りに妻を使ったと思われるのが嫌だから、再契約がまとまったら仕事場では私は目障り、だから辞めさせようとしているんでしょっ」
「なにいっているんだよ。そんなことだけで、この指輪まで用意しない」
   そうかもしれない。ただ離れて寂しく思ってくれたのも本当なのかもしれない。でもきっと仕事もそろそろ上手くいっていない頃だとは思っていた。ジュニア社長からも『やっぱりアイツ、向こうで切られそうだぜ』と聞かされていたから。関係ない、もう関係ない――と言い聞かせた。でも、彼がこの三好堂との契約を自ら切ったのは琴子がいたから。仕事で出逢った恋だったから、やはりそこは琴子も関係ないわけでもなかった。だから……。
 でも、ひどい。三好社長と顔を合わせ辛いから、なんなく会える理由にアシスタントの琴子と復縁して、なんなく気兼ねなく近づけるために『結婚』を利用するだなんて。三十を超えた女の焦りとか寂しさとか、そんな弱さを上手くついている『思いつき』だと思った。
 琴子はもう一度、手放したダイヤの指輪ケースを手に取った。また雅彦がほっとした顔。徐々に腹立たしくなってくる。
 今じゃないのよ。母のことも、結婚も、いまじゃないの! もっとずっと前なの!!
「雅彦君」
 ケースをどんとテーブルの上に置いて、琴子は彼を睨んだ。
「決めて。私と貴方は結婚……」
 そう言いかけた時、琴子の隣に誰かがどっかりと座り込んだ。途端に煙草の匂い、そして汗くさい男の……。
「なんだよ、これ。ぜってえ、許さねえっ」
 琴子が触っていたダイヤのケース、それを彼が手にして、雅彦の手前に突き返していた。
「え、英児……さん」
 いつもの匂いが隣に。そして、いつもの薄汚れた紺色作業着姿で。それに指輪を返した手先も黒ずんでいる。あの指先。
「だれ……。え、どなたですか」
 雅彦の、ぽかんとした顔も腹立たしい。すぐにピンとこないその鈍感さと、『琴子にはまだ男がいない』と信じ切っているその感覚が。
「私がいま、愛している人」
 そういったら、やっと雅彦が電撃に打たれたようにびくっと背筋を伸ばした。
 でもそれは。隣の、やっぱり突如として現れる兄貴も同じようだった。面前で、彼女が、離れていた彼女がきっぱりと『愛している』と言ったからだろうか。
 夜空の向こうがピカピカと光り始め、琴子の傍にある窓ガラスに小さな雨粒がキラキラと流れ始めていた。

 

 

 

 

Update/2011.7.29
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