× ワイルドで行こう【ワイルド*Berry】 ×

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 1.逃げられた! 

 

 やられたー! 朝一番、滝田モータース、龍星轟開店。滝田店長、ガレージから顧客の車を出そうとして初めて気がつく。
「矢野じい……。琴子、今日……何に乗っていったんだ」
 ないから『それ』だと判っているのに。信じられなくて、後ろにいた親父さんに聞いてみた。
「R32に乗っていったぞ」
 マジかよ――。英児は目を覆い、項垂れた。
「琴子はお前が許してくれたと言っていたけど、違ったのか? ちゃんと若葉マークをトランクに貼り付けてでていったぞ」
 車屋店主である俺の愛車、兼仕事廻りの車に『若葉マーク』!? 気が遠くなる思いの英児。
「あれに、今日の外回りで必要な書類を入れてたんだよな。しまったー」
 親父が後ろでため息をついた。
「あのな。そういう大事なもんは車に入れっぱなしにするな」
「つい。今までの癖で……」
 半月前。無事に正式婚約を済ませたので、彼女と結婚を控えた同居をはじめたばかり。それまではすべてが独身男の気ままなライフスタイルだったので、こんなことも今までの癖で済ませてしまっていた。彼女と暮らすまで、誰も自分の愛車に乗ることなんてなかったから予測できなかった。
「それから。ああやって車に乗り始めて楽しくて仕方がない時期だろ。若葉なのにゼットの味を覚えさせたのも旦那になるお前だろ。しかもガレージにこんな何台も旦那が持っていたら、そりゃあ琴子だってとっかえひっかえ試し乗りしたくなるわ。前の晩に『明日はこれに乗る、乗ってはいけない』て話し合っておけよ」
「……そんなこと、思いつかなかった。そっかー、そうしていかなくちゃいけないってことだよな。うん、そうだ。そうだ」
「お前らしいなあ」
 昔から『おおらかすぎて、人が良すぎて。時々ガードが甘い』とこの師匠に言われてきたが、今朝はまさにそれ。だいぶ『お前も自分で自分を上手く使えるようになったな』と言ってもらえるようになってきたのに。
 久しぶりにやっちまった状態。迂闊だった、予測不足。旦那の不注意? 婚約者の彼女が、愛車のスカイラインに乗って出勤してしまった。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 秋晴れの国道を銀色のフェアレディZで行く。
 中心街から少し抜けた住宅地手前に三好堂印刷がある。英児はそこへ彼女に譲る予定の車で向かっている。
 いつもどおりの龍星轟ジャケット姿。秋になり長袖に衣替え。出かけるために作業着ズボンはデニムパンツに履き替えた。いままでそうしていたように、営業先や市外の顧客宅へ訪問する時同様の出で立ちで、彼女の職場へ向かう。
 自分はそうして変わらずに、ゼットのステアリングを握っているのに……。
「なんかこの車、すっかり琴子の匂いになっているじゃねーかよ」
 つまり。彼女の愛車になりつつあるということ――。
 煙草を吸おうと思ったが可愛い匂いがするので、それを汚してしまうようで気がとがめてしまう。煙草も好きだが……、この女の子らしい彼女の匂いもかなり気に入っているから我慢する。
「ほんと、女の子〜女子女子ーってかんじだよな。そういう女の子とすれ違う時にする匂い」
 独り言を呟くその顔が、フロントミラーににやけて映っていていたのでハッとする。
 今でも思う。これって俺の潜在意識だなあと。
 十代の頃からそうだった。美人とか美人じゃないとか関係なく雰囲気というか。きちんと髪を束ねているとか、きちんと黒髪を手入れしているとか。しわのない制服とか、校則はきちんと守って、同級生ともそつなくつきあえる。忘れ物もしない。ハンカチは可愛らしくて、毎日違う柄。派手さや華やかさはないが、女の子らしさは忘れない。平均的でも可愛らしさも忘れない。目立たなくても、きちんと日々を積み重ねてこなしている。そんな落ち着きある生活ぶりが、仕草や物腰、彼女たちの雰囲気を女の子らしく育んでいる。そんな『女子』の側を通るとこの匂いを持っている子が多い。
 例えるとしたらなんだろうか? 甘酸っぱい……かな。未だに上手い例えが見つからない。そんな『きちんと女子』の独特な匂いを、婚約者の彼女は常に維持しているのだ。それに加えて、清々しい大人の女の匂いまで備えていて。
 これが飛びつかずにいられるか? それが側をうろうろし始めたんだからたまったもんじゃない。
 ――『お願い。今夜はもう眠らせて』。
 昨夜、彼女が困った顔で懇願した。ただ、眠る時に彼女の柔肌が直に触れていないと英児も落ち着かないだけの話――。いや、違うなと英児は自分でため息をついた。年甲斐もなくがっついてしまう。大好きな彼女と同居を始めたので、隣にいるとついつい肌を触りたくなって……。夜のベッド、その隣にいると触るだけで終わらなくなってしまうのも頻繁で。
 彼女が残業続きの時は英児も遠慮する。でも、それが終わったばかりだったからついつい飛びついてしまったのだが。そうだった。疲れているんだから、眠らせてあげるべきだったのに。
「はあ。俺のこの堪え性ないの、どうにかならないのか?」
 よくこれで、あの大人しそうな彼女が受け入れてくれたなあと今でも思っている。
 あの大人しそうな……。そう思うと、英児はある夜の苦い思い出が蘇ってしまいつい顔をしかめる。
 その夜は。桜の花が今にも咲きそうな、雨上がりの夜のこと。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 その夜は。桜の花が今にも咲きそうな、雨上がりの夜だった。
 
「ご、ごめん。悪かった! 大丈夫ですか」
「だ、大丈夫です」
 春らしいグリーンのコートをお洒落に着こなしていたOLさん。その彼女を黒い泥で汚してしまった夜。
 目が合うなり、そのお洒落で可愛いOLさんがさっと走って逃げてしまった。
 もう、ショックだった。
 毎夜、車を乗り回している自分が『ほんのちょっとぼんやりした』瞬間に、よく知っていたはずの水溜まりに入ってしまっていた。
 というか。夜道を足早に歩いていく可愛いOLさんが気になって、つい視線がそこに留まっていた。
 嘘だろ。本当は、煙草なんて吸わねーだろ。すげえいい匂いさせてんじゃんかよ――。そう思ったから。
 
 泥を跳ねる前。彼女は古い煙草店の自販機にひっそりと立っていて、とても疲れた顔で項垂れていた。でもきちんとブラウスとコートとスカートを着こなして、いかにも仕事を頑張っていそうな上質のバッグを肩にかけて。髪の毛はぼさぼさだったけれど、英児が近づいた途端『きちんと女子』の匂いがした――。『煙草吸ってる匂い、ぜんぜんないじゃねーかよ』というのが、第一印象。
 どーせ、買わないんだろ。つまんないことで、煙草に走るなよ。嫌なことあって、ちょっとぐれようとしてるのか? もういい歳した姉ちゃんだろ。せっかくいい雰囲気持ってるんだから、今更、こっちの煙にはまることないぜ。
 内心そう思いながら、自販機前で迷っていそうな彼女に声をかける。
「そこ、いい? 買ったならどいてもらえる」
 さっさとここから離れな。ここで思いとどまっておきな。そんな気持ちだった。
 やっと彼女が顔を上げる。……どうみても『怯えている顔』で、英児はそんなところもちょっとショックだった。
 やっぱ、俺。おっかない顔してるんかな。車高をギリギリまで下げたマフラーぶっとい車に乗っている男なんて。綺麗なオフィスで洒落た男に囲まれている姉ちゃんには、薄汚れて見えるんだろうな。
 案の定、彼女は英児と目を合わせることもなく、背を向けて去っていった。
 ち。まあ、いいか。買わずに済んだみたいだな。一人ため息をついた。
 その時、英児は彼女が去っていく空気にはっとし、つい……去っていく背中を目で追ってしまう。
 『きちんと女子』の甘い匂いだけじゃなかった。疲れ切って汗をかいてこなれた肌の匂いが混じっていたから。英児が女を濃厚に感じる瞬間。
 もうすぐ桜が開花しそうな雨上がりの夜。むっとしたそよ風にのって、去っていく彼女の匂いがまだ届く。淡いグリーンのコートの裾を翻し、風にそよいだ横髪からちらりと見えた彼女の白い首筋に、色香があった。
 マジかよ。くそ、めちゃくちゃタイプの匂いじゃねーかよ。もうちょっと上手く話しかければ良かった。と、思ったが英児は思い改める。ここ数年、女性とは上手く噛み合わず、会話も上手く成立しない。なにを分かり合えば良いのかも判らなくなり、面倒くさくなっていたから。
 それに――。自販機からお馴染みの『ピース』を買い、英児はスカイラインに乗り込む。
 それに。ああいうきちんとしたOLの姉ちゃんは、俺みたいな薄汚れた男は眼中にない。良くわかっていた。声をかけたところで、嫌な顔をされるんだ――と。
 スカイラインの運転席に乗り込み、英児はサイドブレーキに手をかけながら、それでも鼻腔にしっかり残ってしまった彼女の匂いに、独りひっそりときめいている。甘酸っぱい女子の匂いと、鈴蘭のような清々しい色香。
 いいな。ああいう女の肌は柔らかくて、あったかそうだな。そう思って惚けながらクラッチを踏み込む。
 顔は驚くような美人ではなかったが、可愛らしい目と可愛い唇の大人しそうな子だった。こんな時間に、あんな疲れ切った目元と表情で項垂れて。でもきちんとしている身なり。いい子なんだろうな。一生懸命やって損ばかりしていそうな子だなあ。俺が恋人だったら、こんな夜はいっぱい抱きしめてやるんだけどなあ……。
 なんて考えながらも、手と足と身体は慣れきった運転を始めている。いつの間にか発進しているスカイライン。
 暗い夜道を帰っていく彼女の背が、フロントに近づいてくる。
 彼女のような女の子とベッドで眠れる夜でもあれば……。英児の脳裏、会ったばかりの可愛い彼女をあろうことか裸にしている始末。
 優しい顔つきに、女の香り。柔らかい肌に強く吸い付いて……。白い裸体が脳裏にぼんやり現れる。
 その途端。邪な妄想をした男を罰するように、フロントに泥水がバシャリとかかった!
 ――やばい! いま、彼女が横にいたよな!?
 急いでブレーキを踏んだ。
 運転席のシートから後ろへ振り返ると、いまにも泣きそうな彼女が泥を跳ねられて佇んでいる姿。
 嘘だろ。俺が……。この道をよく知っていて、雨が降るとそこに水溜まりが出来るって。馴染みの煙草店だからよく知っていたはずなのに。『やっちまった』!
 もう背中にはどっと汗が滲んでいた。こんなことは車を運転していて初めてだった。しかも、どうして『こうなってしまったか』を振り返ると、本当に自分の横っ面をはり倒したい気持ちになる! 彼女を脱がしてぼんやりしてしまったなんて、そんな理由で。走り屋の俺が、泥水を――!
 すぐさま車を降りて『大丈夫ですか』と声をかけたのだが、綺麗な春色グリーンのコートを無惨に汚された彼女の顔が強ばっている。いや……黒い可愛い瞳に涙が浮かんでいる!?
 今から謝って謝って、償わなくてはいけない。そう思って駆け寄ったのに。初めて目があったのに、可愛い匂いの彼女が英児を振り切るようにして走って逃げてしまった。
 カツカツと静かな国道に響くヒールの音が、どんどん遠ざかっていく。
 ――逃げられた! すっげー嫌そうな顔をしていた!
 もう英児も茫然自失……。こんな俺、あり得ねえー。情けねえー! すげえいい子だったのに。俺、最悪なことしちまった!! もうスカイラインに戻っても、暫くは路肩に止めたまま発進が出来なかったほど。
 買ったばかりのピースをくわえ、なんとか落ち着こうと一本吸ったが、全然動揺は収まらなかった。
 泥を跳ねたことも情けないが。なにが一番罪悪感かって。彼女に泥をかぶせる瞬間、彼女を頭の中で裸にして抱きしめようとしていたからだった。
「マジかよー。もう……俺、ダメだ」
 スカイラインのハンドルに額をつけて項垂れること暫く……。その夜、英児はどこにも出かけず、すぐにUターン。龍星轟に戻って眠れぬ夜を過ごした。
 
 翌日の営業時間も立ち直れなかった。
「タキさん、なんかあったの」
 高校時代の後輩で店の事務を任せている武智も、英児の異変に気がついた。
 それもそのはずで。社長デスクに座ったままガレージに行かない英児を訝しく見守っていたようだが、昼過ぎてもぼんやりとただノートパソコンに向き合っているので、黙って見ていた武智も業を煮やしたようだった。
「今日はガレージは無理。俺、散漫しているんだ。いま車を触っても、いいことない」
「そういう日が店長にもあるのはわかっているから、まだ皆黙っているけど――。矢野じいが苛つく前に、なんとかしておいて欲しいな」
 武智はいつも店の雰囲気を重視していて、従業員のコンディションには敏感。でもだからこそ、上手くムードを作ってくれる。そんな男だったから、英児の落ち込みようが『すぐに切り替えられないほど落ち込んでいるようで、心配』だったようだ。
 後輩と二人きりの、午後の事務室。親父と兄貴達がいないこの時。英児は、店長ではなく『昔馴染みの先輩と後輩』として昨夜の出来事を武智に話してしまう。『俺のタイプの子だった〜』は話したが、彼女を裸にした妄想で失敗したことは勿論省略で。
 すると武智がすぐさま笑った。
「やだな。タキさんらしくない。仕事も手につかず、うだうだしているってことは、彼女にどうしてあげたいかもう心に決めてるんでしょ。昔からそう。タイプの女の子には臆病。それ以外はすごく決断早いのにさ」
 高校時代から英児を知っているだけあって、武智は『どうしたいのか』既に見抜いてくれる。
「……だな。そうだな! 俺、行ってくる。店、頼むな」
「了解でーす。いってらっしゃい」
 ついにその日の午後。英児は店を任せて龍星轟を飛び出していた。
 向かったのはデパート。彼女に似合うコートを探しに行って、ダメモトでそれを届ける!! 嫌な顔をされても、届ける。
 そうでもしなくちゃ、気が済まない。受け取ってもらえなくても、せめて嫌な思いをさせたことだけでも謝っておこう。彼女も嫌な思いのまま一夜を過ごしたに違いないから。
 
 何日でも待つつもりだった。でも。翌日の夕、彼女に会えた。
 やっぱり英児を窺って、距離を置いて向き合う彼女。それだけで『やっぱ、俺みたいな男じゃダメなんだな』と諦めがついた。
 せめてコートだけでも、否が応でも強引に手渡して帰ろうと決めた。
 案の定。あんなにお洒落に着こなしていたコートは羽織っていなかった。着古したようなコート姿で、英児はそれだけで本当に心が痛んだ。あんなに似合っていたのに。俺が台無しにしてしまったんだと。
 戸惑う彼女が最後に『ありがとう』とやっと受け取ってくれた。間近に来ると、昨夜の匂いがする。でも英児は振り切るようにスカイラインへ乗り込む。
 絶対に俺のような男は対象外だろう。俺がどんなに彼女のことを『いいな』と思っても――。
 たった一度会っただけの女性。ただそれだけのこと。桜満開の夜、英児はそう何度も割り切って、『琴子』のことは忘れることにした。
 忘れた頃に、また会えるとは思わず。でも近寄れずに遠巻きに眺めていたら……。彼女が不自由な母親の世話をしていることを知った。
 それで、彼女がどうして疲れ切った顔をしていたかも理解できた。そして母親に手を添えて根気強く耐えているその姿が『思った通り一生懸命で、そして耐え忍んでしまう子』だと感じた。でもそれで決定打……惚れたんだと思う。
 だから再会した時、手放したくないと思ったから……。あとは彼女と彼女の母親のために、『なにか手伝えないか』と一生懸命になっていた。
 
  その彼女も、彼女のお母さんも。いまはもう、英児の家族になろうとしていた。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 いまはすっかり『俺の女』として寄り添ってくれる夜桜の彼女。
 思った通りの女で、彼女に優しく暖かく愛されると英児はまだ夢ではないかと思ってしまう。しかもすっかり車好きになってくれて。
 
  高く透き通る青空。銀色のゼットはついにその事務所に到着する。
 それなりの大きさの工場を併設している印刷所と製版会社。その駐車場を隔て、敷地内の片隅、公道側にモダンなレンガ造りの小さな事務所がある。数台が駐車できるそこに、確かに黒いスカイラインが停まっていた。
 しかも。そのスカイラインの隣には見覚えある白いトヨタ車も停車しているのをみて、英児は思わず笑ってしまう。
「あはは。若葉の琴子がゼットに乗って通勤してくるようになって、さては三好さんも負けまいと愛蔵のセリカを動かすようになったのか」
 三好ジュニア社長の愛蔵車、トヨタのセリカ6代目、T200。大事にガレージに保管してあるだけで、ファミリーカー優先になってしまい乗らなくなってしまったとのこと。だけれど、独身時代の思い入れがあり手放せず愛蔵。たまにメンテナンスに持ってきてくれ、英児が整備する。そのトヨタ車がスカイラインの隣に停車している。
 運転も出来なかった女の子が、フェアレディZだのスカイラインGTRだのひょいひょい乗ってくるので、元の車好きの血が蘇ってしまったよう。でも英児は嬉しかった。愛蔵にて大事にされているのも嬉しいが、やはり走らせた方が良いに決まっているから……。
 事務所の駐車場は小さいので、来客があってはと、英児は路肩にゼットを停車し運転席からおりた。
 彼女の職場、事務所を訪ねるのは二度目? 婚約が決まり、龍星轟の顧客でもある彼女の上司、三好ジュニア社長に挨拶に来た時以来か。
 でも……。仕事中の彼女を訪ねるのは、緊張した。小さな事務所だが、ジュニアの趣味なのかモダンで洒落ているいまどきのオフィスだった。そこで彼女が、英児が大好きなOLさんのお洒落をして働いている。
 そんな女とは縁がないか、あっても向こうから切られたりしていたので、英児的には『お洒落なオフィス』は実際のところかなりコンプレックス?
 深呼吸をしながら、三好デザイン事務所の入り口に立つ。ドアを開けて『こんにちは。お邪魔いたします』と挨拶をしようとしたのだが……。ドアを少し開けたところで英児のその手と足が止まる。
 その玄関ドアから見える事務所のデスク。三好社長デスクの目の前に、ノートパソコンと向き合ってキーボードを叩いている彼女を見つけた。
「琴子、これもな」
 側にいる三好ジュニア社長から書類を渡され、彼女が『はい』と笑顔で受け取っている。だが。モニターに向かった途端、真剣な眼差し……。
「このデジタル版下の色指定パーセンテージ。デザイナー指定の色と間違っていないかチェックしておいてくれ」
 また三好社長から。画用紙のような原稿とファイルを差し出され、それも彼女が笑顔で『はい』と受け取る。
「社長。どちらが急ぎですか」
「うーん。どっちなら早く終わる?」
「色指定チェックなら、十五分いただければ」
「じゃあ。そっち先にして俺に返して」
「はい」
 そうして彼女と三好社長はまた黙々と仕事に集中。
 初めて見たな。あんな琴子。でも、彼女らしいな――。英児はそう思った。
 目の前にあること、なんでも真剣に取り組んでくれる。三好ジュニア社長がそこを買っているのがよくわかる。英児の店でも『やる』と決めたら、彼女はまっしぐらになって取り組む。その姿が従業員に認められ、彼女はもうすぐ『龍星轟のオカミさん』だ。
 でも、この仕事も好きなんだろうな。と、英児は思っている。それに龍星轟では、あんな綺麗な格好をして仕事が出来なくなる。側にいて車屋で一緒に頑張ってみたいと思うこともあるが、毎朝、女らしさ満載に綺麗な姿を見せてくれる彼女もたまらなく好きで、それが英児を元気にさせてくれる。
 しかも。ずっと憧れていたOLさん。俺の嫁さんになる女は、本当にオフィスに溶け込む働き者でお洒落で……可愛くて……。気がつけば、その玄関ドアのガラスにはまたにやけた男の顔。そしてその背後に、さらに男の顔??
「あの、琴子に会いに来たんですか」
 にやけていたところ、後ろから声をかけられて英児は驚き振り返る。
「そ、そ。そうですが……」
 焦って答えたのだが。その背後にいた男性を確かめ、英児は絶句する。
「呼んできますね」
 洒落た男が無表情にそう言って、事務所の玄関を開けた。
「大内さん。車屋の旦那が来ているんだけど」
 って。なんでアイツがここにいるんだよ?
 当たり前のように三好デザイン事務所に入っていった洒落た男は、あの『雅彦くん』!
 どうして。あれっきりじゃなかったのか?
 彼女の事務所に、なんで前カレがいるんだよ?

 

 

 

 

Update/2011.9.20
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