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 5.ロケットに乗って、どこまでも 

 

 この日は、愛車のスカイラインで三好デザイン事務所を訪れる。
 駐車場には既に、彼女のフェアレディZが停まっている。その隣の空いているスペースに、英児は黒い車を駐車させた。
 
「いらっしゃい。滝田君」
「お邪魔いたします」
 事務所の扉を開けると、三好ジュニア社長に迎えられる。その後ろにアシスタントの琴子が。婚約者だというのに、こんな時はきちんとしていて来客として英児に礼をしてくれる。だが、その後すぐにいつもの微笑みも見せてくれた。
「いやーいやー、琴子から話を聞いてびっくりしたよー。まさか、龍星轟のレディス用ステッカー制作をうちに依頼してくれるだなんて」
 嬉しそうに出迎えてくれたので、英児もホッとする。
「出来れば、相談しやすい事務所がいいなと思っているので、よろしくお願いいたします」
「うん。うちを選んでくれて有り難う」
 婚約者が勤めていることもあるが、三好社長が龍星轟のお得意様であるからこそ、すぐに『ここに頼んでみよう』と思いついた。地方の中小企業。持ちつ持たれつ、横繋がりも大事。小さな会社を経営する者同士、そこは三好社長も痛感しているだろう。だから英児が依頼した気持ちもわかってくれていると思ったのだが。
「本当に、俺んとこのデザインで良かったのかな」
 せっかくの依頼なのに、そこは腑に落ちない小さな笑みを浮かべるだけの三好社長。その反応が英児の中でひっかかった。
「まあ、いいや。どうするかまずコンサルさせてもらおうか。見積もりも出してあるから」
 早速、応接ソファーに案内され、英児はそこへ依頼人として腰をかける。
 目の前に、三好ジュニア社長。そしてその隣に琴子が……。
「ああ悪い、琴子。俺のデスクの上にある版下。親父のところに持っていてくれよ。急ぎ。それから帰りに、俺の煙草。そこらへんで二箱買ってきて」
「……はい」
 琴子が不意打ちを食らった顔をしている。だが上司の指示、すぐにすべてを飲み込んだような顔を見せ、言われたとおりに事務所を出て行った。
 ここで英児もすぐに気がついた。それは琴子も察していることだろう。そして、三好ジュニア社長もどこか浮かない顔だったが、すぐさま話を開始した。
「これ。一応、見積もりだしたんだけど……。いまの龍星轟ステッカーと同じ大きさと素材、フルカラー印刷としての見積もり。それとデザイン料は別途、ひとまずの基本料金だけど下記にある通り」
「ありがとうございます」
 まずは英児の依頼通りに準備をしてくれていた見積もりを受け取る。
「それから、これ。参考までに――」
 見積もり書の他に、もう一枚。英児はそれをなんだろうかと思いつつも受け取り、すぐに目を見張る。そこには既にたくさんのデザインサンプルが示されてたから。
「デザイナーにはまだ『龍星轟のレディス用ステッカーをデザインする』とは伝えていないうえで、『次の依頼を受ける前に、依頼主にデザイナーの雰囲気を知って欲しいから』と俺から課題を出して描かせたんだ」
 仕事が速くて英児も感嘆。
「龍を課題にすると勘づかれるから、『豹/パンサー』にした。これを女性用としてデザインせよ――とね」
 そのやり口にも英児は驚かされる。やはり。この社長に任せたい。英児はますます確信した。
 近頃、こちらの事務所の業績は小さいながらもジュニアの手腕で上々と聞いている。父親の印刷会社というバックアップもあるだろうが、彼自身デザイナーでもなんでもないのに、デザイナーをどう使うか良く心得ていると琴子から聞かされている。それだけではない。このステッカーの依頼をするにあたって、英児が持つ『横繋がり』という人情とは別の視点も必要ということで、事務員の武智がきちんと下調べをして『業績も、評判もいいよ』と報告してくれたのもある。第三者的判断としても間違いないと思える安定感もあり、いまの手腕を見せられたらやはり『ここしかない』という気持ちは強まる一方。
 それでも。そこで三好社長が渋い顔をしていたのは何故か。そしてアシスタントの琴子を追い出すように英児と二人きりになったのも何故なのか。その答とばかりに社長から切り出した。
「どう。気に入る雰囲気あるかな。気に入ったデザイナーをこの依頼のチーフにするよ。ただし、もう滝田君もわかっているだろうけど、『前カレ』のデザインもその中にあるから」
 やっぱり……。英児は眼差しを伏せた。この婚約者の上司が、時間がかかる遣いへと琴子を外に出したのは、英児と二人きりになって『前カレが関わる仕事でも平気なのか』という確認をしたかったようだった。
 だがすぐに目を開け、サンプルデザインをざっとひと眺め。三好事務所にいるデザイナー。同じ事務所のスタッフ同士でも、個性がはっきり出ていた。
 そして英児はその中のひとつを指さす。
「これ、いいいですね。イメージに近いです」
 ひとつだけ。とてもスタイリッシュなデザインがあった。飛び抜けて雰囲気が異なる。悪く言えば『アクが強い』。他のデザイナーを蹴落とすかのように挑発的な……。それほどに、色濃い個性が目に見えたのだ。
 しかし。その個性が強いデザインを選んだと知った三好ジュニアの顔色が一瞬にして強ばる。そして、すぐに致し方ないとばかりに緩く微笑んだ。
「そんな気がしたんだ。なんとなく、この依頼は本多のデザインがいいんじゃないかって」
 『本多(ほんだ)』――。雅彦のことだった。そして英児も『やっぱり』と、自分で好みのデザインを選んでおいておののいた。
 そして目の前のジュニア社長もわかっていたのか、ふっと残念そうに笑う。
「だからさ……。うちに依頼して良かったのかと、再確認しておきたいんだけど。後味悪い仕事はしたくない。俺が好きな店のトレードマークを制作するオーダーだからさ」
 どこか苛ついた様子で、三好ジュニアが煙草をくわえた。だが火はつけない。ただ口に挟んで落ち着きない。
「前カレのデザインしたステッカーと、これからずっと店のトレードマークとして傍に置いて付き合っていけるのかと心配しているんだよ。ましてや、そこの嫁になる彼女の元カレが、これから始まる車屋夫妻の店を支えるトレードマークをデザインしただなんて……。いいのか、それで。滝田君は男としてどうなんだよ。琴子もだ。ずっと気にしていくことになるだろ」
 だが、英児は三好ジュニアに答える。
「いえ。とても気に入ったので、こちらでお願いいたします。あとはどのデザイナーをどう使うかは三好さんに一任します。次は本題の、龍と星を用いたサンプルをお願いできますか」
 平然と返答した英児の正面にいる三好ジュニアが、口元の煙草をぽろりと落とすんじゃないかというぐらい、唖然としている。
 また彼がテーブルに手をついて、詰め寄ってきた。
「琴子と結婚後、もしかすると一生、前カレがデザインしたステッカーとつきあっていくかもしれないんだぞ」
 それでも英児も顔色ひとつ変えずに切り返す。
「俺にとって、そんなことはどうでもいいんですよ。俺がビリって震えてしまうヤツに出会いたいんです。その可能性を秘めているデザイナーなら、前カレなんて経歴はかすんでみえる」
 ついに三好ジュニアがぽかんとした顔になってしまう。
「雰囲気、似ているんですよね。いまのロゴを作ってくれた東京のデザイナーさんと。俺も、なんとなくそんな気がしたんですよ」
「本多ならやってくれそうだって? それでうちを?」
 いいえ、と英児は首を振る。
「どこに頼もうと思ってすぐに思いついたのが三好デザイン事務所で。琴子に頼みたいと告げたあと、その時になってやっと『しまった。前カレがいるんだった』と思い出したんですけどね」
 後になって思い出したのかよ――と、ジュニアにつっこまれるのだが。
「気がついて『しまった』と思った後すぐ。こだわりが強そうな男なら、やってくれるんじゃないかと。こだわる男のこだわり頑固ってやつですかね。キライじゃないんで」
 ジュニアが呆れた顔でため息をついた。
「琴子から滝田君がどういう男か聞いていたんだけど『判断するのが早くて妙に直感的、でも的確。それが野性的』だって。なんか、わかった。いまので俺もそう思ったわ。一発で本多のデザインを選んだもんな」
「これぐらい挑発的で個性的じゃないと……。いまの龍星轟のロゴと対にはなれないでしょ」
「確かになあ。しかし、これはまたデザイナーにはやり甲斐あるわ、難関だわ、しかし出来上がれば、街中の誰もが目にする商品になる。デザイナーにもチャンスってわけだ」
 ジュニアの心も決まったようなので、英児はパンサーのサンプルを彼に返す。
「次は本題の『龍星轟』のサンプルをお願いします。まだデザイナーは彼と決めたわけではないので」
 『わかった』と三好社長もやっと頷いてくれた。
「それから。イメージの条件なんですが。レディスステッカーは、龍星轟のカミさんになる琴子のイメージでお願いしたいんですよ。彼女が貼りたいなら女の子はみんな貼りたい――そんなかんじで」
「なるほど。それはまた、今度は本多にもプレッシャーってもんだね」
 それでももうジュニア社長は落ち着いて、手帳とオーダー書に英児の注文を書き込んでくれている。彼も覚悟を決めてくれたようだ。
「まあ。滝田君がここまで割り切ったんだから、前カレもそれ同等に応えられる男じゃないと、この仕事は成立しないってことだな。俺も心してかかるわ」
「よろしくお願いいたします」
 その時になってやっと琴子が遣いから帰ってきた。
「俺、帰るな」
「えっ」
 あっという間に話が終わっていることを知った琴子が、やはり自分が蚊帳の外に追いやられたことに気がついて、ちょっと哀しそうな顔をした。
「琴子から聞いていたとおりだったよ。なんでも話が早い、確かに即決の男だよ滝田君は。いいよ、見送ってやんな」
 またジュニア社長の気遣い……。今度は琴子も素直に頷き、スカイラインへと一緒に来てくれた。
「私も、聞きたかったのに」
 ごもっとも。彼女に似合うステッカーを作ると伝えているのだから。
「単純なことなんだよ。ただ前カレがいるからどうするかどうかってこと。仕事の話で支障が出ることは早めに話し合って、ハイお終い」
 変に気遣われるのも、琴子が一人で思い悩むのも嫌だったので、英児から切り出す。だから琴子も驚いた顔で黙ってしまう。
 それを見ぬふりをして、英児はスカイラインのドアを開け、運転席に乗り込む。そして、そこから琴子を見上げた。
「俺、彼のサンプル気に入ったから。ここで頼むことにした」
「そう」
 彼女が答えたのはそれだけ。だが、それだけの静かな返答に微笑みがない彼女の表情を見ただけで英児も察する。
「いいたいことは、俺にだけは言っておけよ」
 そこは夫となる男として、英児は譲らず厳しく言い放った。すると琴子もやっと強い眼差しを英児に向けてきた。
「それでいいの。これからずっと、私達の傍に関係していくことになる」
 琴子は多くは言わない。だが英児も言ってもらわなくてももう判る。
「俺はいい。ビリってシビレる仕事してくれる男が欲しいんだよ。彼のデザイン、思った通りスタイリッシュでアグレッシブ、それでいてどこかセクシャル。どれよりも色気があった。あれ見て、俺も感じた。嫌味なほど頑固。ああいう徹底的にこだわりあるヤツじゃないと、頭いっこ突きでないんだよ」
 琴子も上司同様、唖然とし固まってしまった。しかし暫くすると、可笑しそう笑い出した。
「うん、雅彦君は……。そんな人よ。それで……私、辛かったんだもの……」
 途端に、琴子が何かを思い出したように眼差しを伏せる。哀しそうに。そんな顔をされたら、英児も胸が痛む。この彼女と知り合った時、そんな顔をしていた。どんな辛いことが彼女の周りにとりまいて雁字搦めにしているかを知ってなおさらに、彼女の傍にいて助けてあげたいと思った。あの時の顔をしている。
 なにもかもがどん底だった琴子の辛い時期、雅彦は彼女の女としての気持ちを、仕事へのプライドを優先にして踏みにじってきたのだろう。彼にとってデザインという仕事がそれだけ大事だということ、譲れないものなのだと英児にも通じてくる。男が仕事への情熱をなによりも優先してしまう時の、そのドライな感覚。それは時に女の気持ちとは決して融合されることがない、あの感覚が『車好き』の英児にも痛いほど解る――。
「上等じゃねえか。琴子を犠牲にしてまで選んだモンなんだろ。これで上等じゃなかったら、俺がぶん殴る」
 琴子が面食らった様子で、哀しい眼差しが一気に消え失せる。そして今度は笑い出した。
「もう、英児さんたら。そこまでいいわよ」
「バカ。マジになってぶん殴るんじゃなくて、気持ちの問題だっつうの。本当はいまでも、はらわた煮えくりかえることあるんだけどなっ」
 別れて随分と時が経っていたというのに、英児が大好きな彼女の傍にいられない間にしれっと連れ出して、なに食わぬ顔できらきらした指輪をあの平然とした顔で渡していた雅彦。琴子を自分のポジションを守るために利用しようとしたことを思うと、本当はあんな男、英児だって信用したくない。
 だが、そこは『ビジネス』というか『男の気持ち』というか――。
「でもよ。悪いな、琴子。俺の気持ちじゃなくて、俺の閃きが『これだ』ていうんだよ。そこんとこ、俺も雅彦クンとおなじで悪いな」
 男の情熱を女の気持ちより優先する。こんな時。
 しかし。琴子がもういつもの微笑みを見せてくれている。それを知って意外だと驚いたのは英児のほう。
「滝田社長がそう決めたなら、助手席にいる私はそのまま一緒に行きたい。そう思っているから」
 貴方について行きます。そんな琴子の気持ち――。勿論、嬉しかった。だが英児はそれでも『ちょっと違うな』と首をかしげ――。
「助手席だけじゃないだろ? 時々、運転席を奪っていくだろ」
 お前、男の隣にちょこんと座っていいなりになるような弱い女じゃないだろ。と、言いたい。
 助手席にいる時は、英児と並んで走ってくれる時。運転席に乗っている彼女は自分の意志で前に進んで行く時。そう思っている。
「でも。このお話では助手席でお供させて頂きます」
 英児が好きな柔らかい微笑みを琴子が見せてくれる。
「素敵なステッカー、作りましょう。『これぞ』と感じたデザイナーにお願いしましょう。龍星轟は滝田社長のお店だから、貴方の閃きがいちばん大事。私も英児さんのそんな閃きが好きだから。傍で見ていたい」
 三好デザイン事務所の『大内さん』ではなく、いま琴子は『龍星轟店長の女房』の顔になってくれている。
 その笑顔に、英児はひとまずホッとしてスカイラインのエンジンをかけた。
「じゃあ。俺、店に帰るな」
「気をつけてね」
 龍の指輪をはめた指先が、英児の頬に触れる……。
 まさか。あの男のデザインを気に入ってしまうだなんて。英児だって複雑なのが本心。その男に、別れた女をイメージにしたものをデザインしろと依頼して……。しかも、それを自分の店の新たなるトレードマークにしようとしている。
 でも。大丈夫だ。この女は俺の気持ち、誰よりも解ってくれている。
 そう思えたから。英児の頬に優しく触れている華奢な指、その手をぐっと捕まえるように握りしめ、そのまま英児は彼女の手の甲にチュッと強く吸い付き、何度か繰り返す。
 それだけなのに。琴子が少しばかり感じたかのように悩ましげな声を漏らす。誰が見ているかも解らない彼女の勤め先、真昼の空の下なのに……。彼女は英児の愛しい気持ちをすぐにその心にも躰にも感じ取ってくれる。
 それを知った男の心にも火がついた。
「っいた……、え、英児さん?」
 琴子が痛がる。最後はもう優しい愛撫じゃない。英児は指輪をしている彼女の薬指を噛んでいた。甘噛みより強く。うっすらと男の歯形がついてしまった白い指。それを琴子に返した。
「英児さん……」
「じゃあな」
 ドアをばたりと閉め、すぐさま英児はスカイラインを発進させる。
 今日はバックミラーには彼女一人。噛まれた婚約の指をさすりながら、不思議そうに英児を見送っている姿。
 その噛み痕に、我が侭な男の気持ちが込められていることを――。彼女は知ってしまっただろうか。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 彼女と通じ合えたから『大丈夫』。
 ――なんて。それだけで終わると思ったら大間違いだった。
 
 『社長の仕事が片づかなくて、帰りは遅くなります。夕飯は待たずに食べてください』
 ステッカーの依頼をしたその日の夕。彼女からそんなメールが携帯電話に届いていた。
 残業期間でもない時期だったが、琴子の仕事は納期との戦いで、とにかく勤務時間は英児より不規則。良くわかっていたのだが、もう……一人の食事が侘びしくなってしまい、つい彼女の帰りを待ってしまう。
 それでも琴子は思ったより早く、二十時前には帰ってきた。
「ただいま」
 疲れ切った顔で帰ってきたので、珈琲を傍らに新聞を読んで待っていた英児は驚いて琴子を出迎える。
「どうした。顔色、よくないな」
 力無く頷くと、琴子はすぐにテレビ前のソファーにへたり込むように座り頭を抱えてしまう。
 嫌な予感がした。
「なにか、あったのか」
「うん、ちょっと」
 それでも、彼女がこんなに疲れ切った顔で帰ってくるのは残業期間以外では珍しい――。
「……あの、今日、仕事中に『あれ』が来ちゃって」
 『あれ』? 一瞬なにか解らなかったが、琴子と暮らし始めて暫く、英児もすぐになんのことか判るように。
「あ、そう、だったのか」
「うーん、また『今月も』って、がっかり」
 つまり『月のもの』が来てしまい、また愛の結晶が出来ていなかったとがっかりしているのだ。
「だからさ。式が終わってからでもいいだろ。俺だってすぐ出来ることは大賛成だけどさ。本当に出来た場合、ドレスとかどーすんだよ」
「まだ選んではいないけど。お腹がちょっと大きくなってもいいようなドレスにしようと決めているの」
 ドレスをまだ選んでいないのに、お腹の子供が出来た時のことは『決めている』とはっきり言い切る彼女。それほどに……。俺の子供を欲しいと思ってくれているんだと。英児だって感激する。
「はあ。いつもの痛み止めを持っていくの忘れていて、仕事中、痛くて痛くて」
「なんだ。そうだったのか。待ってな」
 置き薬がある戸棚へ英児が向かう。そこから常備している痛み止めと水を入れたコップを琴子のもとへ持っていく。ソファーに座っている彼女がやっと『ありがとう』と笑顔になる。
 だが、薬を飲み干して落ち着いたのか。ローテーブルにコップを置いた琴子が、意を決したようにして傍で立っている英児を見上げる。それでも少し躊躇っている。
「雅彦君が、ちょっと荒れちゃって」
「マジで」
 まさか。とは思ったが……。琴子も致し方なさそうに小さく微笑むと、またため息。それどころか英児から目線を逸らすように俯くと、小さく呟いた。
「お前の旦那、なに考えているんだよ。ワザと俺を指名してくれたのか。――と言われた」
「そ、そうなんだ」
 なんだか、急激にがっかりさせられた。こっちが正面から直球投げたのに、その球を上手く捕れなかったのかよ。しかも俺じゃなくて、女の琴子に言いがかりつけやがったな。俺が感じたような『わかる男の気持ち』は同等じゃなかったのかよ――と。
「それで、三好社長と雅彦君がやりあって」
「マジで!!」
 今度はもっと驚かされる。上司とやりあうほど、嫌なのかよ――! そして、『しまったー。やっぱり俺の独りよがりだったか。三好さんに迷惑かけた』と知り本気で英児は焦り始める。
「でも。三好社長が『お前のデザインを気に入ったという男のどこがいけないんだ』て吠えてね。ちょっと騒然としちゃって、それでなんかスケジュールがずれちゃって」
「うわ、もしかして、もしかしなくても。俺がごたごたするような依頼を持っていったから……残業に?」
 やっぱり独りよがりだった。俺が良いと思っても、三好さんにも琴子にも迷惑になってしまったのだと英児の心が痛んだ。
「大丈夫よ、いつものこと。クライアントのオーダーを受ける時は多かれ少なかれ、営業マンでもある社長とクリエイトするデザイナーは衝突するものなのよ。よくあるの」
 でも、琴子が憔悴しているのは『板挟み』になってしまったからなのだろう。
 そんな琴子の足下に英児は跪く、昼間、噛んでしまった婚約指輪の手に触れる。そこには英児が噛んだ痕がうっすら赤く残っている。男の我が儘を刻んでしまった彼女の顔を、英児は見上げる。
「無理して俺に合わせなくてもいいんだぞ。お前が辛かったら、よそのデザイナーを探すから」
 だが、琴子は笑顔で首を振った。
「ううん。社長はもうやる気満々なの。大好きな店のステッカーを作れること、いまの龍星轟のステッカーのように、自分の事務所から出したデザインが街中で見られようになることを望んでいるの。それに……本当は雅彦君も。あんなに怒るということは『すごくやりたい仕事だ』と思っているからなのよ。でも、クライアントから仮の指名があってもその条件が『別れた女をイメージした仕事』と来たから、どうしていいか解らなくて混乱しちゃったんだと思う」
 英児は言葉を失う。やっぱり元々つきあっていた男。彼女だから、アイツの本心がわかるのだと英児は突きつけられる。しかしそれは自分が仕向けたこと。彼女の前でそんな戸惑いなど決して見せてはいけないと堪える。
 それでも、琴子はもう清々しい笑顔を英児に見せてくれる。
「こう言うとおかしいかもしれないけど。『本多に絶対にいいものを描かせるから、三好と私に任せてください』。私、デザイン事務所の大内としても、なによりも『龍星轟のオカミさん』として店長が絶対に気に入るものをうちの事務所から出してみるから」
 彼女も『仕事の顔』。だけど、龍星轟の一員の眼差し。英児は再び、自分が噛んだ痕が残る龍の指をぎゅっと握りしめる。
「わかった。俺も改めて腹をくくる。そちらに任せる。彼に伝えてくれ。いいもんあがってくるのを待っていると」
「うん。『本多』なら、滝田店長が望む個性的でどこにもないものを描いてくれると思うわよ。だって、それがこの地方では受け入れてもらえなくて悶々と苦しんでいたんだから」
「でも、俺。そういう男、キライじゃない」
「私は。『そういうデザイナー』はけっこう好き。でも男としてはもう興味はない。だって……もう、ひとりしか……」
 噛み痕を残した目の前の男、英児を、琴子はじっと見つめてくれ微かに囁いた。『もう貴方しか、見えないんだもん』――と。
 これだけ言ってくれたらもう英児もなにも言うことはない。すぐさま『琴子』と彼女の柔らかい匂いがする身体に抱きついていた。
「私の指、赤くなるまで噛んだでしょ。あの痛み、私、忘れないから。ずっとズキズキ、英児さんが『俺のことちゃんと見てろよ』と隣にいるみたいだった」
 今日は英児がダメだった。なんだか泣きそうだ。いつもならここで『くそー。アレの日じゃなければ、いま押し倒して裸にするのになあ』――と茶化して笑いあいたいところだが、今日はふざける気になれないほど……。
「どうしたの」
 いつもすぐに肌を探して、彼女が困るぐらいに吸い付いてくる強引な男がなにもしないからか。琴子から英児を抱き返してきてくれる。
「俺、メシまだ食ってない」
 なんとかやっと言葉を発すると、琴子が驚いて離れた。
「え、待っていてくれたの」
「だからさ。なんか美味いモン食いに行こう。それで、気晴らしにぶっ飛ばしに行こう」
「うん。行く。一緒に行く」
 今度こそ。龍と龍の手を繋いで二人は外に出た。
 
「俺が運転する」
 英児が乗り込んだ車は、彼女に運転させているフェアレディZ。彼女も頷いて嬉しそうに助手席に座った。
 よく行くレストランで食事をした後、英児が運転するフェアレディZは高速のインターチェンジへ。
 ETCゲートを抜けると、そこはオレンジの灯りに照らされながらも、暗闇の向こうへ果てなく伸びる高速道路。
 英児はハンドルを握り、ギアをチェンジしアクセルを思い切り踏んだ。
「ゼットがどんな車か、見てろよ」
 エンジン全開のフェアレディZ。愛車の助手席で頷く彼女の微笑み。
 高く長く鳴り響くエンジン音。一車線だけしかない地方の高速道路はスピードを出せば出すほど、行く先は狭まる錯覚に陥る。ライトに照らされる中央分離帯の赤い反射ポールが道案内のように現れては消えていく。
 それでも英児はギアを切り替え、アクセルを踏み倒す。先が見えない暗闇を。どこへ行くかも決めていない道を。思い立ったその時、突然でも、二人一緒に向かっている。
 『今夜はどこに行こう』。行き先なんていつも決まっていない。独りの時からずっとそんな夜を過ごしてきた。
 『どこに連れて行ってくれるの』。車をどこへ走らせるか、未だに『行く先不明』という独り身感覚で運転席にいるのに。でも、いまはそのままついてきてくれる彼女がいる。
 暗闇の高速を走り抜け、この方角のずっとずっと端っこにある岬までいくことに決める。いつものそこらへんのドライブじゃない。今夜はもっと遠くへ――。
 高速を降り、風力発電の白い風車がある海辺の街を走り抜け、英児は琴子を傍に灯台がある最西端の岬を目指し走り続ける。
 
 日付が変わる前に、なんとか岬についた。大きな灯台が暗闇の瀬戸内海を照らしている。灯台まで徒歩で行けるのだが、夜中なので展望駐車場から灯りを眺める。
 潮の香、冷たい風。優しいさざ波が聞こえる。海の向こうには漁り火がゆらゆら。それを岬から彼女と見渡す。
「本当に、ちょっと前の私には考えられない。突然。夜なのに。どこへとも分からず。でも行ってみよう、なんて。英児さんと一緒じゃないと出来ないもの」
 だが彼女は宵闇にほのかに光る内海を潮風の中眺め、とても幸せそうだった。その横顔で琴子が言う。
「ゼットは私には月夜のロケット。夜、こんな遠い岬まで飛ぶように来られるだなんて……」
 満ち足りた微笑みを絶やさない彼女を、英児も風の中、強く抱き寄せた。
「どこだって連れて行ってやるよ。そして、どこにだって琴子も一緒に連れて行くからな」
「うん。これからもどこにでも連れて行って。どこでも一緒に行きたい」
 もう真夜中は冬の気温。白い息を吐く琴子も英児に抱きついてくる。
 やっぱり。あったかい。彼女の温度を感じただけで、英児はいつだってとろけそうになる。
「もう、冬になるんだな。あっという間だな」
 あとひと月ほどで、忙しい冬がやってくる。
「今年は琴子とお母さんと、年越しをするんだ。俺」
 英児のジャケットの胸元で、彼女も静かに頷いてくれる。
「年越し蕎麦は、英児さんが買ってきてくれたお父さんも大好きだったあのお蕎麦ね。一緒に買いに行こうね」
「そうだな」
 はやく、彼女と家族になりたい。もう今すぐ。こんなに傍にいるのに。でも傍にいるから余計に強く思う。
 運転席と助手席は、彼女しか乗せない。そして必ずどちらかに俺もいる。誰も乗れない二人だけの車に早く乗りたい。英児も遠い漁り火を見つめながら、白いけど熱い息を吐いた。
 
 それから。琴子がいつの間にか雅彦クンのことを『本多君』と呼ぶようになっていることに、英児は暫くしてから気がついた。

 

Update/2011.11.7
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