× ワイルドで行こう【ファミリア;シリーズ】 ×

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 5.リトルバード・アクセス《8》 

 

「小鳥ちゃん、これをお父さんと桧垣君に持っていってあげて」
 そろそろ日付が変わる。
 父の胸になりふり構わず飛び込んで泣いていたら、後を追ってきた琴子母にも抱きしめられて、二階自宅に連れ戻された。
 泣いている小鳥を、母はそっとしてくれていた。涙も止まって、リビングのソファーでぼんやりしていたら、キッチンにいた母が珈琲を淹れ始め、それが出来上がったところ。
 母が差し出したトレイに、父がいつも使っているマグカップと、予備のマグカップ。それを『わかった』と受け取った。
 
 母が持っていけばいいのに、どうしてかな。と思いながら、小鳥は玄関を出て一階事務室への階段を行く。
 だけど。わっと飛び出していた気持ちが落ち着いても、やっぱり小鳥は一階の男二人がどうなっているのか気になってしまう。そんな小鳥の気持ちを、母は解っていて? それで一階に行くキッカケを作ってくれた?
「お父さん」
 父ちゃんじゃなくて『お父さん』。ちょっとよそ行きみたいな呼び方だが、時々、かしこまって言う時もある。
 だから、自動車雑誌を眺めていた父がびっくりした顔で振り向いた。
「おう、なんだよ。落ち着いたのかよ」
「うん。これ……お母さんが持って行きなさいって」
 トレイの珈琲カップを英児父の社長デスクに置く。
「サンキュ」
 さすが琴子、気が利くなといういつもの嬉しそうな笑みを見せ、そして英児父は小鳥も見た。
「翔を止めたかったんだな。わかる。あいつ、今にもぶっ飛ばしてどこかに行ってしまいそうな顔をしていたもんな」
 小鳥もこっくり、素直に頷いた。
「あんなお兄ちゃん。初めて見たから。どうなるか分からなくなって、怖かった」
 英児父も『そうか』と小さい微笑みを見せ、珈琲カップを傾け一口。
「……いや。父ちゃんも、今夜の翔と同じような経験があってさ」
 『同じような経験?』。それが『好きな女性と破局して』ということだと直ぐに判った小鳥は目を見張る。やはり父にも、琴子母と出会う以前に、辛い恋の経験があったんだと。
「そんとき、シルビアに乗っていたんだよ。俺が高校を卒業して直ぐ手に入れた初めての相棒だったんだけどよ。高校時代から好きだった女とやっとつき合えたと思ったら、やっぱり『いつまでも髪を染めたままのヤンキーな貴方は嫌』て言われちまって、まあ、自暴自棄になって峠を走ったら事故っちまったんだよ。で、廃車になるほどおシャカにしちまってさ」
「え! あのシルビアって。最初から乗っていたシルビアじゃないの?」
「そのあと、中古で買い直した二台目だよ」
 だけど父はそのシルビアにあまり乗らない。なのに、他の車より大事にしている姿を見せて『なんで最初の相棒に愛着持っているのに、スカイラインみたいにどんどん乗らないの』と思っていた。
 父はやるせない笑みを見せると、そこに立っている娘の小鳥を見つめた。
「そんときの暴走で、欲しくて堪らなくてやっと手に入れたはずの車を廃車にした。すげえ後悔したんだ。車にすごい悪いことしたと思った。俺も少しだけ入院することになって」
「え。彼女が原因で事故になったなら、彼女もびっくりしてお見舞いに来てくれた?」
 父が首を振る。
「知り合い全てに。彼女には知らせるなと頼んだからな。もう去っていく女に、また来られたり、気にされて元に戻ってきてくれても、俺が苦しいだけだからさ。彼女は知らないまま、その後直ぐ、真面目なリーマンと結婚したよ」
「なに。それ……!」
 むしゃくしゃっとした。
 父ちゃんがヤンキーの姿をしているだけで嫌になってフッて。それで父ちゃんが傷ついたのも知らないで、父ちゃんが切り捨てられても去っていく彼女の気持ちを大事にしたことも知らず、なに、勝手にのうのうと結婚できたのよ――と。
 だけど、そこでその人と英児父の縁が切れたからこそ、琴子母と出会ってくれた。そして小鳥がいまここにいる。そう思うと、父親を馬鹿にされたような気持ちが湧いても、それで良かったのだとも思う。
 それにやっぱり……父ちゃんらしい。
「だから父ちゃんも、今夜はお兄ちゃんにも『走りに行くな』――と言ったんだね」
「見ただろ。あの翔がもの凄い燃えた目をしていた。なんでここに来たと思う? たぶんあいつ、俺に止めて欲しかったんだと思う」
 きっとそうだ。小鳥もそう思った。あまりコントロールをしたことがない荒れる気持ちをもてあまして、翔は信頼している、そして畏怖も抱いている『上司』を頼ってきたのだと。
「そして。俺も解る。好きな車をいじっているうちに、気持ちも落ち着いてくるってもんよ。車体をジャッキであげて、ホイールを外して、ボルトとナットを外して、新しいタイヤを転がして持ってきて、持ち上げて……。一人で淡々と作業をして落ち着こうとしているんだろ。それにタイヤを外してしまえば、ひとまず走りにいくことはできない。履き替えている間になんとか切り替えているだろうよ」
 そして英児父は事務室の掛け時計をみた。日付を超えて、暫く経っていた。
「そろそろ、終わるだろ。これ、もっていってやれ」
 小鳥が持ったままのトレイで湯気も消えてしまいそうな珈琲を父が指さした。やっとピットに行かせてもらえる許可を得て、小鳥も頷いて事務所を出る。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 ピットをそっと覗いた。
 ジャッキで宙に浮いてる青いMR2。そこには青いストライプのシャツの袖をめくり、胸元も頬もスラックスも砂埃で茶色に汚してしまった翔の姿があった。
 クレリックシャツの白い襟も、逞しい腕の途中までめくられた白袖口も、茶色く汚れている。
 蒸し暑いピットでは翔の黒髪は汗が滴る額に貼りつき、首筋も汗で光っている。もう颯爽ときめていた爽やかな青年ではなかった。汗と泥埃で薄汚れてしまった、『いつもの彼』に崩れていた。その姿で工具を持ってタイヤのボルトをぐりぐりと締めている。
 真一文字に結ばれた口元、力強い眼差しは、すべてMR2に注がれていた。
 ……声が、かけられなかった。
 親父さんが言ったとおりだと思った。車とぴったり寄り添って、車に触れて、やっと精神を保っている。落ち着かせている。そんな気がした。
 入っていっては、いけない気がした。そして、小鳥が入る隙がない。そう……やはり『そっとしておく』のがいちばんだと思った。
 コーヒー、置いてきたいけど。たぶん、今の翔兄にはいらないね。
 小鳥は静かに背を向ける。
「小鳥……?」
 ピットから小鳥の背にか細い声が聞こえ、立ち止まる。そして静かに振り返る。翔がこちらをじっと見ていた。その顔はもう、いつもの『お兄さん』だった。
「これ。うちの母が持っていってというから。コーヒーだよ」
 トレイを差し出すと、翔はじっと黙って小鳥の手元にあるマグカップを見ていた。
「有り難う。戴きます」
 翔からこちらに向かってきて、小鳥の胸がドキッと蠢く。あんな様子のお兄ちゃんに、なんて言葉をかければいいのだろう? そんな緊張だった。
 だけれど。小鳥の目の前までやってきた翔は、いつもの落ち着いた笑みを見せ、小鳥の手元からマグカップを手にした。そして一口。
 ほっとついた彼の息が、小鳥のすぐ目の前で落ちてくる。
「社長は」
「事務所で終わるのを待ってるよ」
「俺は大丈夫だから、もう自宅で休んでもらえるように伝えてくれるか。事務所もピットもガレージも、俺が責任を持って閉めておくからと」
 だけど小鳥は首を振る。父が自分の経験をふまえたうえで、あれだけ心配していたから、どんなに翔がそういっても安心するはずがないと思ったのだ。
「私がそう言っても、父ちゃんは翔兄ちゃんが終わるまで待っているよと思うよ。そう言いだしたら聞かないことは、お兄ちゃんもわかっているでしょ?」
 その途端だった。また……翔の表情が険しく戻ってしまった。頬を引きつらせ、小鳥ではない、どこか違う途方もない向こうを睨むような眼に変貌した。だけど一瞬だった。
「わかった。終わったら、社長のところへ行く……」
 直ぐにいつもの物わかりが良い優等生のような落ち着いた微笑みを見せ、背を向けてピットに戻っていってしまった。
 子供の頃から毎日、あの人の顔を見てきた小鳥には、なんだか漠然とした不安が広がる。
 トレイを持って事務所に戻ると雑誌を広げている英児父が、うとうとしはじめている。いつもだったらもう寝ている時間。
 本当なら小鳥も二階自宅に戻って部屋で勉強をしているか寝るところなのだが、どうしてもあの『納得したような微笑み』がひっかかって、小鳥は矢野じいのデスクに座ってジッと車も走らない夜の道路を見て考えていた。
 翔兄って真面目で優等生タイプ。でも人間って本来それだけじゃないよね。あんな顔もするなら、翔兄だって感情的になって……。普段の理路整然とした落ち着きなんて、保てないほど狂うこともあるのかも。いま、小鳥はそんなことを淡々と考えていた。
 もし翔兄が今までにないほどの崩れた姿を見せたら、小鳥自身、どう思うだろうか?
 ううん。やっぱり……変わらないと思う? 翔兄は翔兄、むしろ、従業員として整えていないそんな翔兄を知りたい。小鳥はふとそう思った。
「父ちゃん」
 父を起こして、小鳥も自宅に戻ろうとした時だった。ガレージから『ブウン、ブウン!』と激しくエンジンをふかす音が響いた。
 その荒っぽさ……! どうしたのか、小鳥の中にある血が騒ぎ出した。とてつもない『不安』が的中したかもしれない! そんな危機感を煽るエンジン音!
「終わったか、翔の……」
 父もエンジン音で目を覚ましたが、小鳥はもうその時には駆けだして事務所を飛び出していた。
「小鳥――!」
 父の声に構わず事務所を飛び出した時、ガレージから青いMR2もバックで飛び出してきたところ。
 運転席にいる翔を見て、小鳥はますます確信してMR2に駆けていく。彼がシートベルトをしている! やっぱり不安は的中した! 
 物わかりの良い優等生の顔をして、やっぱり、父の言い付けを破って、新しいタイヤを履かせて走りに行ってしまう――!
 ――シルビアを、あんなに欲しくて手に入れた車だったのに。感情的に暴走して廃車にした。
 男の失恋、若い時のコントロールできない気持ち。どんなにそれがいけないことでも、やってしまう。知らなかった若き日の父の姿は、いま、運転席にいる翔と重なる。
 ピットからバックをして出てきたMR2のハンドルを切って、車を龍星轟から出て行く方向へ変えようとしている。
 彼の目がやっぱり燃えている。さっきこの家にやってきた時のように、まだ彼の目は怒りに溢れている。悔しさを食いしばる彼が力強く回そうとしているハンドル。アクセルを踏んだら、もう一気に飛び出して行ってしまいそう!
 必死になっていた小鳥はMR2の前に飛び出していた。
 エンジンの熱気をまとって発車寸前のMR2の真っ正面で、小鳥は両手を開いて立っていた。
「待って! 翔兄ちゃん――!」
 運転席の彼が『あ』と驚いた顔、出て行く方向を定め、もう動き出そうとしていた車の前に飛び出してきた人間。それは『飛び出し事故』も彷彿とさせるほどの光景だったはず。
 『キッ』と翔がブレーキを踏んだ。
 両手を広げる小鳥の膝元すれすれに、青いバンパーが停まっていた。
 怖くなんかなかった。お兄ちゃんがこのまま出て行ってしまう方が怖い。
 なんとか車が停車して、ほっとした小鳥が思ったのはそんなことだった。
「おまえら、なにしとんじゃーっ!」
 カッとなった父の怒声が龍星轟に響き渡る。
 英児父が事務所から飛び出してきた。言い付けを破ろうとしている部下、そして後先考えずに飛び出した娘が『轢かれそうになる』寸前……! 相当、頭に血が上っている。そんな顔でこちらにやってくる。
 それをバックミラーで確かめたのか、運転席の翔が急ぐためか、『そこをどけ』と小鳥に向かって威圧的に声を発しているのが目で見てわかる。でも小鳥は首を振る。
 前進を阻まれている彼に睨まれ、またMR2のエンジン音が激しくブウンと唸った。彼がエンジンをふかして、小鳥を威嚇している。でも小鳥は再度首を振る。
 ついに翔が運転席窓から身を乗り出して叫んだ。
「そこをどけ!」
 初めて大好きなお兄ちゃんに怖い顔で怒鳴られる。でも小鳥は何度も首を振る。
 そんなに、走りたいの。それで気が済むの? お兄ちゃんの今の気持ちってそれしかないの。それだけなの!? 小鳥の心が叫んでいる。
「翔、降りろ!」
 怒り心頭でやってきた父が運転席から身を乗り出している翔を今にもひっつかみそうだった。なのに、今度の翔兄は運転席に戻り、そのウィンドウをぴしゃりと閉めてしまう
 ――父のいいつけを破ってでも行きたいんだ。それならば! 小鳥は助手席に駆ける。今にも走り出しそうなMR2のドアを開けて、助手席に乗り込んでしまう。
 ドンと乗り込んできた小鳥を見て、さすがに翔兄が唖然とした顔に。
「行こう。お兄ちゃん。早く――」
 今度は娘が助手席に乗り込んでしまった。またまた吃驚する父の顔が翔兄の向こうに。閉まっているウィンドウを父が拳で叩いたが、ついに翔はサイドブレーキを降ろし、アクセルを踏んでしまう。
 ギュギュギュ――とタイヤを鳴らし、青いMR2は小鳥を乗せてとうとう龍星轟を飛び出してしまった。
「知らないぞ」
 アクセル全開でMR2を走らせる翔が低い声で呟いた。でも小鳥は応えない。無言でシートベルトをして一緒に前を見据えた。
 どこかから携帯電話が鳴る音。たぶん、英児父から。でもそれも二人で無視した。
 『社長の言い付けを破った』。『父親の目の前で、娘自ら怒る男の車に乗り込んで、連れられていく』。さあ、どうしよう。そんな状況……のはず。
 それでも、もう……。翔兄も小鳥も『走りに行く』こと以外の、余計なものはもう消し去っている。今は、スピードをだして夜の気流をつっきる車に乗って駆けていきたい。それだけ。
 だけど小鳥は確信していた。小鳥さえいれば、誰かが一人でも彼の傍にいれば、最悪なことにはならない。そう信じている。そうでなければ、小鳥は助手席から降ろされているはず。いつものきちんとした翔兄なら、引き返して小鳥だけでも置いていこうとする。なのに、横に置いてくれている。
 彼は小鳥を乗せて、MR2を走らせている。アクセルを荒っぽく踏んでいるけど、そんなにメーターを振り切るような暴走でもない。
 信じている。大丈夫。翔兄は馬鹿なことはしない! 私が、龍星轟に連れて帰る!
 MR2は市街を抜けて、インターチェンジへ。ETCゲートをくぐって高速道路へ。
 『俺は直線が好き』。峠よりも翔兄はまっすぐスピードに乗ることが快感になるタイプ。
 ゲートをくぐると、さらに翔はアクセルを踏む。白い袖口が汚れた腕で彼が軽やかにギアをシフトしていく。その度にMR2のエンジン回転数が上がっていく音。
 地方の一車線しかない高速道路をMR2は羽根でも生えたかのように駆ける。まるで闇夜を地上すれすれに這って飛ぶ猛禽のよう。鋭く速く軽やかな伸びでアスファルトの上を飛んでいく。
 シートにいる小鳥は既に『G』を感じていた。ガードレールも中央分離帯のオレンジのポールもすごい勢いで小鳥の視界から去っていくほどのスピード……そんな中での重力を。
 MR2はエンジン音を長く響かせ、今このために生まれたとばかりに、その性能を出し切って自由になっていると小鳥は感じていた。
 すごい。これ、次に私が乗る車なんだ。この車、こんな乗り心地だったんだ!
 不謹慎かもしれないが、車を待ち望んできた血が沸き立った。
「すごいっ! これが本当のMR2なんだね!」
 瀬戸内の紺碧の空にはいくつもの星。地方の高速は夜になると暗い。MR2のライトだけが行く先を照らす中、静かな高速にどこまでも響くエンジン音。
 大好きな人と二人。大好きな車で夜空に飛び立っていくような高揚感。
「すごいよ、すごい。MR2……。やっぱり父ちゃんの車とは全然違う。私、ほんとにこの車を気に入った。早く、私も運転したい!」
 つい。笑みを浮かべて、抑えきれない気持ちが溢れてしまっていた。
 すると……。急にMR2のスピードが落ちた。どんどん後退するように、小鳥の視界に瞬く間に過ぎ去っていたもの全ての形がはっきりと見えるようになり、エンジン音が緩やかに落ちていく。
「……ご、ごめんなさい」
 すごく嫌な気持ちをどうにか振り払いたいから車を飛ばしていたのに。横にいる女が空気も読まずに、ウキウキしている。気分を台無しにされた。だから、スピードを落としたのだと小鳥は思った。
 だけど。運転席のアクセルを緩めた翔は、もう笑っていた。
「お兄ちゃん……?」
 ギアを落とし、MR2は通常走行になる。
「いや……。やっぱり、違うんだなと思って。小鳥らしくて、……なんか力が抜けた」
 え。どういうこと? 気分を悪くしたんじゃないの。邪魔をしたんじゃないの。そう思っている小鳥に、今度の翔は頬を引きつらせる笑みを浮かべている。
「瞳子は……。これをするとすごく嫌がったんだ。この車のこと、最後まで嫌っていた」
「そ、そうなの?」
 初めて。翔兄の口から彼女のことが語られる。子供じゃない。上司の娘じゃない。小鳥だけにいま……。
「こうしてドライブに行くだろ。俺がこれをしたがるだろ。彼女は助手席で震えて怒るんだ。二度とこんな危ないことはしないで。私といる時はこんなことしないで。やがて、彼女はこの車にすら乗ってくれなくなった」
 また再び、ギアがハイへと切り替えられ、翔がアクセルを踏む。再びエンジン音が高鳴り、MR2がアスファルトを飛んでいく。
「……ずっと前から決まっていたんだな。全然、合っていなかったんだ。そうだったんだ。『いつか解ってくれる』なんて、なかったんだ」
 また翔兄の眼差しが闇夜の果てへ遠く馳せていく。
「なのに。車屋の娘である小鳥は、目を輝かせて、笑ってくれるんだもんな。駄目な女はどうしても駄目。それがよく分かった」
 そして翔がはっきりと言い放った。
「もういい。終わりにする。これっきりだ」
 すうっと、彼の黒い瞳が凪いでいくのを小鳥は見た気がした。
 その瞬間、今度はいつも龍星轟で見ているような凛々しい眼差しが闇夜に強く注がれる。また彼の逞しい腕がギアをローからハイに切り替える。
 MR2は、再び、野鳥のように宵闇を駆けていく。でももう、いつも小鳥が龍星轟で見ている彼の横顔だと思った。黙って静かに、でもしっかり前を見据えている頼もしい男性に戻っていた。
 彼の恋が終わった。もてあましていた気持ちを、彼はコントロールしはじめている。MR2が正しい軌道に乗って、さらに思うままに飛び立っていく感覚。
 そんな彼の横で、小鳥は息を潜めるようにして、黙って傍にいる。今夜、私はただ傍にいるだけ……。慰めるとか、聞き役になるとか、理解するとか、そんなんじゃない。やっぱり彼はまだ全然、小鳥が及ばない遠くにいる。でも……そっと息を潜めて、傍にいる。彼がたった一人ではないことを、少しでも感じてくれていたらそれでいいから。
 だから黙って、ひたすら黙って。でも彼が突き進んでいく夜を一緒に見据える。
 車は南部地方に向かっている。こんな夜遅くに、この辺りに来るのは初めてのこと。高速を降りて、瀬戸内を見渡す岬に向かうラインを走り抜け、ついに翔の車はこの半島の先端、三崎町の岬灯台まで来てしまった。
 展望台の駐車場に着くと、運転席を降りた翔が、やっと笑顔を見せて伸びをした。
「あー、やっちまった」
 いつもの八重歯が見えたので、小鳥もほっとして助手席を降りた。
「未成年連れ去り。親父さんに、クビにされるかな。俺」
 落ち着きを取り戻した彼が、それでも笑って、ようやっとスラックスのポケットから携帯電話を取り出した。
「社長、桧垣です。……申し訳ありませんでした」
 落ち着いたら落ち着いたで、今度は躊躇いもなく英児父に連絡をしたので、小鳥も緊張して硬直――。
 やばい。私もやばい。こんな夜中に、よく知っているお兄さんとはいえ、大人の男性にひっついて、こんな夜中の、こんな遠くまで一緒に来てしまった。
 『お前のオトシマエは……!』。つい先日も、後先考えずに起こしてしまったことで、手痛いペナルティを喰らったばかり……。
 まさか。今度は……『MR2はお前にはやらねえ』とか!?
「はい、はい。承知しています。本当に、本当に、申し訳ありませんでした」
 密かに顔面蒼白状態になっている小鳥に、翔が携帯電話を差し出していた。
「親父さんが、替わってくれと言っている」
 MR2と同じ、青い携帯電話を小鳥は受け取る。もう心臓ばくばく。どうしよう、父ちゃん、すごく怒っているはず! もう恐ろしくて息ができない。
「……父ちゃん」
『オメエ、いま、どこにいるんだ』
 思った以上に静かな声だったので、小鳥はなんとか一息つくことができた。
「三崎町の岬」
『はあ!? そっちに行ったのか。どーりでダム湖方面にはいねえはずだわ』
「え、父ちゃんは、いまどこにいるの」
『いま、今治。テメエら、ひっつかまえてやろうと思って、スカイラインで追っかけていったんだけどよ。あてが外れたわ』
 父は東部方面、いつも龍星轟の走り屋仲間が集まるダム湖から、しまなみ海道まで行ったらしい。確かに翔兄は、海道の大橋と橋を渡り継ぐコースもお気に入りだった。
 そして父も……。心配して、車で追いかけてきてくれていたんだと思うと、本当に申し訳なくなってきた。
「ごめんなさい。お父さん」
 涙が出てきた。後先考えない行動ばかりするやんちゃ娘がすることに、こんなに気を揉んで……。振り回されて……。でも、絶対に捨て置かないで、どんな時でも必死になって小鳥を手放さない、その手にちゃんと繋いでおこうと必死になってくれる。
 そんな小鳥の反省の意が息だけでも伝わったのか、父の静かな溜め息も聞こえてきた。
『おまえらしくてよお。でもよ、おまえがあれだけ必死になってくれたからよ、翔を止められた気がする。おまえ、翔のことを信じていなきゃ、あんなことできねえぞ』
 父の声が震えている気がした。怒りたくても怒れない、安心したけど、今の今までもの凄く心配していた。そんな感情の震えが小鳥にも伝わってきた。
『とにかく、帰ってこい。信じていたよ、父ちゃんも。お前が横にいれば、翔は馬鹿なことはしないって……。信じていた』
 そして、父が今度は静かに言った。
『小鳥。翔のこと、頼んだぞ。俺にとっちゃ、従業員は家族も同然だからよ。お前に任せる』
「お父さん……」
 従業員を思う気持ち、家族のように日々を過ごしてきたから、お前も、俺と同じ気持ちでやってくれたこと。
 英児父はそう言って、小鳥に任せてくれた。それはもう子供にわざわざ頼んでいるというふうではなく、……それは、初めて、父に、一人の任せられる大人として信じてもらえた気にもなって、小鳥は驚いていた。
 電話を切って翔に返そうとすると、彼は暗い瀬戸内を力強く遠くまで照らす灯台の明かりを目で追っていた。
 遠い漁り火の夜海から、柔らかな夏の夜風が彼の黒髪を揺らしていた。
 そっとその顔を覗くと、静かに微笑んでいる。それを見ただけで、小鳥の小さな胸が……いつものようにぎゅっと甘く締め付けられた。それはもう、ずっと格好いいと思っていたお兄ちゃんの顔だった。
 今日の夕方は、パリッとしていたスーツ姿も、今はジャケットもなく、ネクタイもなく、クレリックのお洒落なシャツはくしゃくしゃで、シャツもスラックスもところどころ泥で汚れていた。
「……お兄ちゃん。汚れちゃったね」
 指さして笑うと、彼もにっこりと笑ってくれる。
「あはは。似合わないことしすぎた。でも……この汚れているのが、俺は嫌いじゃない」
「ネクタイのお兄ちゃんも、格好いいよ。スーツの時、いつもそう思ってる」
 似合わないというから、そうじゃないよと返したかっただけだったのに。それでも翔兄は微笑みながら首を振った。
「スーツなんて好きじゃないんだ。俺な……、龍星轟のあのジャケットを着られるようになった時の、あのとんでもない嬉しさは今でも忘れない。憧れだったんだ。まるでF1レーサーのチームの一員になれたみたいに。初めて社長を見た時も、すげえ格好いいと思った」
「面接の時?」
 彼が首を振る。そして灯台のてっぺんでくるくる回る銀色の大きなライトを見ながら笑った。
「中学の時かな。時々、見かけていたんだ。社長のこと。がっちりしたスカイラインに乗っている、大人の男。俺の実家の近くの道をよく走っていたみたいで何度かみかけた。あんなにきめているスカイラインなんてなかなかないから、いつも一目で分かった。それに街中で見かけるかっこいいスポーツカーのほとんどが、あの龍のステッカーを貼っていた。それが『龍星轟』という店のステッカーで、生粋の走り屋なら必ずあの店に行くこともネットの口コミで知った。そして……。あのスカイラインの兄貴が、『龍星轟の経営者』で、走り屋野郎共のリーダー的存在の兄貴だってことも店のサイトで知った。面接でやっとその人に会えた時、やっぱり震えた。ずっと前から憧れていた……その人と働くこと。……諦められなかったんだ」
「知らなかった……。そんなずっと前から父ちゃんのこと、知っていたなんて」
「うん。社長もびっくりしていた。でも社長の車だけ、本当にオーラが違うんだ。一般人には見分けがつかないかもしれないけど、車が好きな男なら、直ぐ分かるものを社長は持っていたんだ。俺もそれで惹かれた。社長の車は目に焼き付くんだ」
 それ、わかる……と、小鳥も思った。車にも表情がある。その人の好みが直ぐに出る。そんな意味では、英児父の車は、走り屋野郎が憧れるようなセンスで仕上げられているはずだった。
「そう思うと。俺って、だいぶ前から、何よりも車と一緒に生きていくことを選んでいたんだな」
 また彼が哀しく眼差しを伏せた。
「車も、彼女も、続けていれば、ちゃんと手に入って離れないと思っていたけど。欲張りだったんだ」
 そんなことないよ。車が好きで車にばかり手をかけちゃう男の人でも、ちゃんと奥さんと幸せな人、龍星轟にもいっぱいいるよ――と言いそうになって、小鳥は口をつぐむ。
 それは『あるとしたら』これからの話であって、翔兄にとっての『今』ではない。翔兄は瞳子さんとそうなりたかったと今は思っているのだから。
「馬鹿だよな。あれだけMR2が嫌われているのに、最後の賭けだと彼女に会いに行く時、俺、やっぱりMR2をピカピカにして気合い入れているんだもんな」
 汚れたワイシャツ姿で、柔らかい黒髪をかいて情けなく笑う彼を小鳥はただ黙って見つめる。今までこのお兄さんは『本当はビジネスマンとして生きていける人、それが似合う人』だと思ってきた。でも、今日はもうそう見えない。この人も、父と龍星轟にいる皆と一緒。『車バカ』にしか見えなくなってきた。これが本当のこの人だって、やっとわかった気がした。
「彼女は車に乗ってくれないどころか、『またすごくピカピカね』とか嫌そうに言ったりして。まあ、そうだよな。車をピカピカにするなら、もっと私のことも考えろって意味だったんだな」
 意外と……。異性には鈍感なのかな。と、初めて思ってしまった。
 お兄ちゃんは大人。大手企業の就職を蹴ってやってきた人。なんでもできる頭がいい人。そう思っていたのに。そうじゃなかった。
 でも、小鳥は微笑んでいた。この人のそんなところをずっと知りたいと思っていた。出来過ぎる優等生なお兄ちゃんの、もっともっと人間くさいところ。仕事で綺麗に保っている姿ではない、お兄ちゃんそのものの姿を、こうして知りたかった。
 それをやっと見られた気がした。
「お兄ちゃん、いつの間にか生粋の龍星轟の人間になっていたんだね」
 こんな車バカ。龍星轟じゃなきゃいられないよ。他の会社にいたって、この人はいつか龍星轟にやってきただろう。そう思った。
「うん、俺、龍星轟が好きだから……。だから、彼女もいつか俺の好きなものは理解してくれると思っていたんだけどな。だってさ。憧れの走り屋兄貴にやっと雇ってもらったらさ。その兄貴の嫁さんが、すごい品の良い奥様なのに、旦那が仕上げたフェアレディZのエンジンを朝一にふかしてぶっ飛ばして出勤するんだぜ。あれを見た時も『すげえ』と思ったよ。しかも、オカミさん。社長と出会うまで車には興味もなかったし、社長と出会ってやっと運転免許を取ったって聞いてさ。興味がない女を車で虜にしちゃうそんな社長、カッケエエてすごい興奮した」
 母の話が出てきて、小鳥もつい笑ってしまう。本当にそう。フリルのひらひらブラウスが似合うお嬢さん奥様のママが、走り屋仕様の厳ついフェアレディZを乗り回す。でも今は琴子母だけの揺るがないスタイルとして定着して親しまれ、走り屋野郎の誰もが認める『龍星轟のオカミさん』になっている。
「あんなの見せつけられたら、頑張ったら俺だって彼女となれると思っていたんだよ。でも違った。やっぱりオカミさんだから……、社長とオカミさんの二人だからなれたんだなと分かった。通じ合えない男と女ではどうにもなれないとよく分かった」
 羨ましいよ、社長が。そしてやっぱり社長はすごいよ。
 翔兄がやるせなさそうに項垂れ、そこでやっと唇を噛みしめ泣きそうな顔になる。それが俺にはできなかった。瞳子と俺は、できなかった。難しかった。そんなヒリヒリと染みるような痛みが小鳥にも伝わってきた。
「お兄ちゃんっ」
 そんな彼に、小鳥から抱きついていた。彼がびっくりして項垂れていた頭を上げ、少しだけ後ずさったのが分かった。
 でも小鳥から抱きついて彼の背にしがみついていた。
「お兄ちゃんだけが悪いんじゃないよ。お兄ちゃんは一人じゃないよ。本当に一緒にいたい人じゃないとは思うけど、明日だって、お兄ちゃんには龍星轟の皆がいるよ。父ちゃんだって待っているよ」
 分かってる。彼が求めている寂しさを埋めるいちばんの存在ではないことだって。的外れなことを叫んでいるとも……分かっている。
「小鳥……」
 抱きつかれて硬直していることも、小鳥はわかっていた。まったく知らない人間に突然抱きつかれて困惑している身体の反応だった。瞳子さんなら、お兄ちゃんは崩れるようにこの肉体を優しく柔らかくするのだろうけど……と。
 だけど。そこで小鳥の長い黒髪をつむじからすうっと撫でる感触……。
「ありがとうな、小鳥」
 結っていない黒髪を何度も撫でてくれる大きな手。
「一人だったら、俺、どうなっていたかわからない。それに。小鳥も社長も、こんな俺のために、こんなに一生懸命にしてくれることがわかったから」
 だから、もう大丈夫。
 彼がそう耳元で囁いてくれた時。今度は小鳥が抱きしめられていることに気がついた。
 びっくりして今度、身体を硬くしたのは小鳥。でも翔は優しく小鳥の背中ごと抱きしめてくれていた。
「……暫く、人がこんなに温かいって。すっかり忘れていた」
 そして小鳥も、もう力を抜いて彼の肩に頭を預けてしまっていた。
 ――初めて聴いた。お兄ちゃんの心臓の音。
 微かに肌を伝って聞こえてくる鼓動。そっと目をつむって、小鳥は心の中だけで呟く。
 いままで、この人の姿だけを追っていた。毎日傍にいても。遠く感じて、自分には釣り合わない人だと、もっと遠くに感じていた。
 でも今、この人は怒ったり泣いたりするし、情けなく戸惑うこともあって、そして心臓がある生身の人だって実感できる。
 それはもしかすると……。車ばかりいじってきた翔兄も、同じく、小鳥から『人が傍にいる』と実感してくれているのかもしれない。
「さあ。帰るか」
 でも、すぐに離れていってしまう……。まだ一体感のない人。
 小鳥の頭をいつものお兄さんの顔で撫でると、彼からMR2へと背を向けてしまう。
 だけど、小鳥は微笑んでいた。これでいいの。これで。
 お兄ちゃんの心臓の音、私の肌の温度。それさえあれば……私たちは、明日も一緒にいられるよね。
 また明日から、毎日。一人じゃない、今日まで一緒にいた人たちと、また一緒にやっていけるよ!
 
 暗い海を照らす灯台の光のように。MR2は再び夜道を明るく照らす方へと走り出す。
 一体感ならここにあった。このマシンに二人一緒に乗っている時、二人はこのマシンと一緒に一体になっている。
 そしてこのマシンは、もうすぐ小鳥のもの。この人が持ってきた想いごと、乗せてきた想いごと、引き継ごうと思っている。

 

 

 

 

Update/2012.7.23
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