× ワイルドで行こう【ファミリア;シリーズ】 ×

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 5.リトルバード・アクセス《11》 

 

 いつか彼が走った夜中の道。
 今夜、ステレオからは親父さんのお気に入り『ザ・ヴェロニカズ』。
 ハイライトで遠くまで照らし、いまこの猛禽を操っているのは私。
 
 
 キーを回し、大好きなエンジン音を耳でも振動でも体感したら、小鳥の中でもエンジンがかかる。
 シートに沈めた身体はシートベルトで固め、足はブレーキに、もう片方はクラッチに。左手はサイドブレーキを落とし直ぐにギアを握る。
 最後にハンドルをしっかり握り、前を見据える。
 ――今夜は、あそこに行く。
 一人でも二人でも。この日の夜、小鳥が決めた行き先はそこだった。
 
 ダム湖では、独身の走り屋が集まる。その中に勿論、彼もいる。
 たまに英児父が現れると、ここにくる連中は喜んでくれる。だけれど、そうなると小鳥はどこかに逃げたくなる。
 それはたぶん、英児父も同じなのか。小鳥がダム湖を定期コースにするようになると、違うコースに変えてしまったよう。または、同世代の親父達のグループが集まる時間帯を選ぶようになった。
 
 そのダム湖を通過し、よく見るようになった顔見知りに挨拶だけして、小鳥は『今夜の行き先』へと走り出す。
 
 ETCゲートを抜け、高速に乗る。目指すは瀬戸内南部地方。
 高速と半島の197号線メロディーラインを駆け抜けて、佐田岬へ。
 
 宵闇が強い静かな地方の高速に、青いエンゼルのエンジン音が響き渡る。
 すごい。やっぱり父ちゃんが手がけたエンジンは、全然違う。タイヤもアスファルトに吸い付くようだし、エンジンは軽やかに切れよく回転しているのがハンドルを握る手に、そして小鳥の身体中に伝わってくる!
 こうなると、小鳥はもっとアクセルを踏みたくなる。だけど……メーターを確認して、その足を緩めた。
 父にそう教わっている。そこに陶酔してはダメだ。どうしてもそれをしたいなら、それが出来る許されている場所を選び覚悟をもって運転しろ。それが車の愛し方だと。
 ステレオから流れてくる曲もそれを知ってか、ゆっくりめのバラードに切り替わる。
 小鳥も肩の力を抜いて、ただ暗闇に次々に現れる行き先を見据え、アクセルを踏む力を一定に保つ。
 
 今夜は、私、一人……。
 約束したけど。
 だからって、無理矢理に一緒にいて欲しい傍にいて欲しいと合わせてもらったことなど一度もない。
 
 ダム湖に行けば、彼がいつもつるんでいる青年軍団の一人に過ぎない。
 お兄さん達と走って、笑顔で別れる。ただし、そんな若い男性達と一緒にいる時は、翔兄は必ず小鳥の傍にいてくれた。
 ……たぶん。上司の娘だから、悪さでもされないよう気遣ってくれているのだろう。
 そう思っているし……、小鳥自身も、自分に甘くなる都合が良い考えは持たないようにしていた。持てば期待してしまう、期待したら……欲張りの始まりだから。そしてその果てにガッカリして落ち込んでしまうから。
 『ダム湖で待っている』。
 翔兄との約束はいつもそれ。
 とにかくダム湖で落ち合うことになっている。
 誰もいない時もあれば、今夜のように誰かが集まっていることもある。
 こういう時は、だいたい『男同士でどうぞ』と小鳥は遠慮する。誘われたらついていくこともあるけれど、基本はそうしている。
 今夜もだから。小鳥はダム湖でお兄さん達と別れた後、『一人でも行こう』と決めていた場所を目指している。
 
「お兄ちゃん……なんて、呼ばなければ良かった」
 
 何年も前のことを、今更ながら憾んでる。小さな女の子だったからこそ、自然と馴染んでしまった彼への愛称が最近はちょっと哀しい。
 だからって。あのお兄さんのことをなんと呼べばいい? やっぱり『お兄ちゃん』か『翔兄』としか言えない。
 今でも真面目で淡々と日々を過ごしている彼に、大きな変化はない。ただ彼のバックヤードで隠されていた『恋人』という影が消えただけで、相も変わらず『お兄ちゃん』だった。
 どこに行っても『滝田社長のお嬢さん』と紹介される。龍星轟では『夜、走りに出かけるようになった娘がどうしているか』とヤキモキしている英児父に、部下として『大丈夫ですよ。俺がついていますから』とかなんとか言って、ちくいち報告してるのだろう?
 英児父も『頼んだぞ。あいつ勝ち気でトラブル引き寄せる体質だからよ。お前がついていれば安心だわ』とかなんとか言って、本当に部下である翔に頼っている。
 そんな男二人の姿を垣間見るようになると、小鳥は苛ついた。
 英児父は翔兄のことを従業員として小鳥のお守り役にさせているし、翔兄は翔兄で、上司の言い付けを守りたいから小鳥の傍にいてくれるのだと。
 なにかあったらいけないから、『夜、でかけるなら。俺と一緒にいればいい』ぐらいに思っているのだろう。
 そんなの、もう限界!!
 大学生になってから、この二年。それだけの繰り返しだった。
 だから小鳥は今夜『初めて』、あの遠い岬に『夜、一人で』行く。そう決めていた。
 ……いや。と、小鳥はハンドルをぎゅっと握り、一瞬だけ眼差しを伏せる。
 お兄ちゃんと二人きりになれたら、誘うつもりだった。
 一緒に来て。岬に、一緒に行こう。お願い。だって私、もうすぐハタチ。そうしたら、私のほんとの気持ち。今度こそ聞いてくれる?
 ダメでもいいの。これでダメって言われたら新しく始める。哀しいけど。でももう『上司のお嬢ちゃんだから面倒を見ている』なんてイヤ。そんな重荷、イヤ。
 そう思っている小鳥だが、いざとなるとそれが言えず、結局、彼を誘えなかった。だから今夜は『一人きりで決断する』ことを選んだ。
 そんな心にかかるもやを振り払うように走っている。
 今夜は一人で、あの岬に行こう。今まで何度か彼と一緒に、二人だけで夜の岬に行ったことがある。そこで龍星轟では決して話せないことを、沢山話した。
 学校の話、アルバイトの話、男友達関係の相談。家族のことも、そして、彼の仕事のことも。
 だから彼は、英児父が娘のことを心配していても、『小鳥は男の助手席には乗らないと決めているんですよ』なんて、父親が知らない娘の気持ちも、大事な時にさっと口にして上手く対応できる。
 そして。小鳥がトラブル体質にならなくなったのも、小鳥自身が学んだことも大きいが、彼が耳を傾けて客観的で的確なアドバイスをくれるようになったからだと思う。
 でもただの、『走り屋仲間』。走る者同士としての親睦を深めてきたに過ぎない。
  
 あと十数キロで高速を降りる。一人きりの暗闇、周りは運送トラック数台のみ。でも青いMR2のバックミラーがチカッと光った。
 後ろからすごいスピードで距離を縮めてくる白い車を、小鳥はバックミラーで確認。その車を一目見て、小鳥は一瞬だけ息を止める。
 翔の白いスープラ!
 え、どうして。私、行き先なんかお兄ちゃんに教えていない。
 なのに小鳥の胸が勝手にドキドキと舞い上がる。彼が追いかけてきてくれた。
 少しだけ車窓を空けると、聞き慣れたエンジン音がどんどんこちらに近づいている。
 それでも小鳥はスピードを落とさなかった。私は私のスピードで、あくまでも自分のために前に行く。そして今日は一人で行くと決めてきたから。
 前を見据え、小鳥もハンドルをぎゅっと握り直す。バタバタと気流が入り込んでくるウィンドウを閉めると、小鳥は制御していたアクセルをグッと踏み込む。
 距離を縮めていたスープラを振り切るように、青いMR2が加速する。また引き離され、彼の車がバックミラーから消えた。
 ただ見据え、小鳥はハンドルを握り、アクセルを強く踏む。暗い運転席に浮かび上がるメーター。赤い針が徐々に右に傾いていく。
 いつも前を走っていたのは、歩いていたのは、彼の方。小鳥はいつだって追いかけてきた。
 でも今夜は違う。彼が小鳥を追いかけている。そして小鳥は引き離そうとする。
 わかっている。これは本意ではない。でも、私の願い。『来てよ、追いついてよ。そして、どうして追いかけてきたのか教えて』
 ――私を捕まえて!
 窓を閉めていても、その音が小鳥の背後に迫ってきた。
 もうバックミラーに映ったかと思うと、あっという間にMR2の背後に追いついた。
 車線変更をした白いスープラが、青いMR2と並ぶ。運転中に会話は交わせない。だけど、いつも二台で走りに出かけた時、小鳥と翔は運転席からの目線で会話をした。
 その目が少し怒っていることに小鳥は気がついた。『俺に何も言わないで消えた』とでも思ってくれているのだろうか?
 それはそれで、探しに来てくれて嬉しい反面。『なんでもない仲なのに、なんでお兄ちゃんにいちいち行き先を報告しなくちゃいけないの』という憤りもある複雑さが入り交じる。
 そんな小鳥の苛みなど知ってるのか知らないのか。もうすぐインターチェンジだという標識が近づいてくるところで、翔兄はいつもの横顔でそれを指さした。
 つまり『ここで降りるぞ』という指示? それとも『ここで降りるんだろ。俺も降りる』と……判ってくれているのか。
 隣にピタリと並ぶスープラは、小鳥が選んだスピードにきっりち合わせ寄り添い走っている。高速の直線もゆるやかなカーブもそっくりそのまま、真横に繋がれているように並んで走る。
 これでも小鳥はけっこう集中して前を見て走っているつもりなのに、ふと横目で見るスープラの運転席にいる男は、これまたいつも通りの余裕の笑みを浮かべているのを見てしまう。
 なんでも余裕。まだ未成熟な小鳥より、なんでも余裕。そんなちょっと憎たらしい横顔。……なのに。同じ前を見て、同じスピードで、ぴったり隣に寄り添って、どこへ行こうかもちゃんと判ってくれていて、どこまでも、どんな時も、彼は隣にいた。
 これって。もしかして、彼の答え? そう思っても良い? そんなふうにぼんやりとしか感じられないことが、もう限界。だから『決意』しようと思う。ハタチの前、今夜、岬で。
 インターチェンジが視界に現れ、二人揃ってスピードを落とす。先頭を行くのは白いスープラ。俺が先導するとばかりに、彼が先に走ってしまう。
 高速を降りて一般道に出ても、先ゆく彼は小鳥が思い描いたとおりのルートを走り始めている。彼が選んだそのコース、行く先はもうひとつだけだった。
 何も言わなくても、小鳥が行こうとしている場所をわかってくれている。……これはもう『一人の決意』ではなく、『今夜は当たって砕けろ』に変更決定のよう。小鳥の中に、何とも言えない緊張が少しずつ心臓にじわじわと迫ってくる感覚。
 夜の瀬戸内海がひっそり優しく光る国道をまた一緒に走る。青と白のトヨタ車二台は、ついに岬へ向かう峠道に。
 小さな街灯しかない狭い峠道を、走り屋仕様の車がエンジンのうなりを潜め、静かにのぼっていく。そして二人の車は、大きな灯台が照らす灯りの中へ共に辿り着いた。
  
 なにもない真夜中の駐車場に、たった二台の車。白いスープラの運転席から、彼が降りてきた。小鳥もシートベルトを外しドアを開けると、側に来てくれた翔兄がもうそこに立っていた。
「今夜はずいぶん遠いところを目指していたんだな」
 やっぱり。不機嫌そうな声。
「うん。そんな気分だったから」
「夜、ここに来るということは夜中の到着になり、帰りは朝方になる――ということをわかっていて……」
 『何が悪いか、子供じゃないから判っているよな』なんていう、そういう彼の諭すような上からの目線が時々小鳥を苛立たせる。だから、さらに小言を言われる前に自分から遮る。
「お母さんには、今夜は『岬に行って帰ってくる』とちゃんと伝えている」
 すると、翔兄が少し驚いた顔を見せた。
「オカミさんが……? 許してくれたのか」
「くれたけど。それがなにか?」
 ちょっと素直じゃない切り返しをしてしまう。そして彼が驚いたのも無理はないかと思う。小鳥には今まで『門限』があった。だけどハタチを過ぎたら門限は解除ということになっている。ただし何に置いても自己責任ときつく言われている。
 それでも時々、遅くなることはあった。きっちり守っていたが、バイトを始めた頃から、両親も徐々に目くじらを立てなくなってきた。それも小鳥がきちんと遅くなる時は連絡を入れているからかもしれない。
 今日も事前報告の上、ここに来ることに決めていた。
 
 小鳥が岬に行きたいことを知っているのは、琴子母だけ。『気をつけて行きなさいよ』と寛大に受け入れてくれた。英児父には伝わっているかどうか知らない。ただ母には『ハタチになる前に、夜の灯台を見たい』と伝えた。母は『何故』と当然問い返してきた。『二十歳になってからでも行けるでしょう』と。当然の返答だと小鳥もわかっている。だから小鳥は言い換えた。
『ハタチになる前に、そこに行って、決めたいことがある』
 そういったら、母が少し心配そうな顔をして、暫く考えた後に『わかりました』と承知してくれた。
 そして母も言った。
『あの灯台ね。お母さんもちょっと困ったことがあった時、お父さんが真夜中に連れて行ってくれたことがあるのよ。結婚する前、婚約したばかりの時』
『え、そうなの』
 母はそれ以上の詳しい経緯は話してはくれなかったが、『うん、そうなの』と年齢を感じさせない愛らしい微笑みを見せてくれた。
 それが母にとっては大事な想い出なのだと小鳥には思えた。
 お互いにそこで、好きな人と真っ暗闇を照らす大きな灯台の頼もしい灯りを見て、何を思う。小鳥はきっと母も一緒だったのではと感じていた。
『小鳥ちゃんは、一人でいいの?』
 その一言に小鳥の胸がずきりと痛んだ。そして母には何もかも見抜かれていることもわかってしまう。今度は小鳥が照れくさい。でも……。母はもう『同じ女として向き合ってくれている』と悟った小鳥は。
『わからない。一人かも、一人じゃないかも。でも行ってくる』
『ちゃんと帰ってきなさいよ』
 うん――と、頷いて。この夜龍星轟を出てきた。
 
 だから翔は、英児父お馴染みの口うるさい不許可より、静かに黙っているがいざという時は誰もがそのたった一言に従ってしまう琴子母からの許可に驚いているだろう。
「そうか。オカミさんが許してくれていたのか。なんだ、それならいいんだけどな」
 なに。お母さんが許してくれたなら、お前一人でも良かったんだな。俺がついてこなくても良かったんだな。そう聞こえたんだけど?
 小鳥は密かにむくれて、運転席から降りたくなくなった。
 だけれど彼は、いつもここに来た時と同様に、まず岬が見下ろせるところまで行ってしまう。
「んー。最西端のこの岬は遠いけれど、やっぱりここはいいな。充分に走れるし、到着した時の達成感もたまらない」
 龍星轟のジャケット姿のまま、『んー』と伸びをする彼の後ろ姿。小鳥はドアを開けたままの運転席から、そんなお兄ちゃんを見て呆れた溜め息。
 なんで私がここに来ようと思ったのか。あの人は少しでも考えて、ここまで一緒に来てくれたのだろうか――と。
 それに、この岬。二年前に、貴方がメソメソした場所なんですけどね。
 のんきなだけの『いつも通りのお兄ちゃん』を横目でみつつ、小鳥は胸の中でそんな嫌味を吐いていた。
 だから。小鳥はここに来たかった。
 ただ好きだった人の痛みも悲しみも知った日。同じように小鳥の心にも頬にも痣が出来た夜。あの時から、小鳥の恋は『憧れ』から『愛』に変わった。
 どんなに痛々しい情けない姿を見せられても、彼を抱きしめたいくらい好きだと自覚した日。幻滅なんてしなかった。同じように泣いて、同じように噛みしめていた。それぐらい好き。
 しかし小鳥の一方通行。それでも、あの後もこの岬には彼と何度も来た。
 ひばりが鳴く春の灯台も、遠くまできらきらと青い輝きを放つ夏の海も、短い日暮れに紅く染まる秋の海も。そして、白い息が夜空に映える冬の、今夜も。何度も彼と一緒にその風を感じてきた。
 瀬戸内の向こうの向こう、九州が見えてしまうのではないかと思うぐらいに煌々と波間を照らす灯台の光が、果てなく夜海を照らしている。翔はそれを暫し眺めている。本当なら小鳥も彼の隣でそれを感じたい。
 そして今夜はそれを感じたくて来たはずなのに。小鳥の身体は運転席から動こうとしなかった。
 ――決めてきたのに。一人なら『ハタチになったら彼に伝えよう』そう決めるために。二人なら『今夜、伝えよう。ダメでも伝えよう』そう決意するために。
 その気持ちを、あの灯台に照らしあてて欲しかったのかもしれない。
 なのに。小鳥は駐車場の暗闇に一人、今まで居座っていたそこから動けなくなっている。
 やっぱり怖いんだ、私? 自問した。
「椿さんが終わっても、夜はまだ寒いな」
 椿神社の祭りが終われば冷気が緩む、春を告げる祭りとこの街の人の言葉。日中の日射しはすっかり温かくなってきたが、夜はまだ白い息が出る。
 冬のコートも羽織っていない、龍星轟ジャケットだけの翔兄。白い息を吐きながら、運転席から降りてこない小鳥のもとに戻ってきた。
 彼が訝しそうに小鳥を見下ろしている。
「どうした。なんか変だな」
 小鳥は言い返さなかった。彼がそれでも小鳥の言葉を待っていてくれる。息が詰まりそうだった。
「コンビニで夜食を買っておいたから、俺の車まで来いよ」
「うん」
 これもいつものこと。どちらかが『夜食』を準備して、どちらかの車で一緒に食べて話をする。
「少し疲れたから。仮眠を取ってから戻ろう」
「うん」
 これも。たまにあること。どちらかの車で一緒に仮眠を取る。だからといって身体に触れ合ったことなど一度もない。無事故の健全なドライブを守るために必要なこととして割り切っている。
 お互いに運転席と助手席で、一時間から二時間ほどの仮眠を取る。今まではそれだけでも小鳥は嬉しかった。あのお兄ちゃんと一緒にいることが、こんな時も彼が小鳥を隣に置いてくれていることが。
「ほら。温かいレモネード」
「ありがとう」
 彼ももう、小鳥のことをなんでも知っている。何が好きで、嫌いか。小鳥の日常にあることは、良く把握している。
 彼は家族に近い。父の部下であって、一家が住まうそこが職場。つねに上司の家族が寄り添う日々を共にしてきた『お兄さん』。
 妹のように、よく知ってくれていることは当たり前……。それが彼であることが嬉しい時もあり、今夜のように『お兄ちゃんは、家族のようなお兄ちゃんではないのに』と、もどかしい時も幾度もあった。
 スープラの車内、運転席と助手席に並んで一息つく。
「夜中だけど、小鳥なら『おにぎり食べる』と言うだろうと思って、いっぱい買ってきた。俺も腹減った」
「いらない」
 レモネードの栓を開けながら、間髪入れずに返答したので、翔がまた驚いた顔をした。
「なあ。お前、今日……ほんとに変なんだけど。なにかあったのか」
「試験結果が出る前でイライラしているだけだよ。就活も始めなくちゃいけないし、バイトも休みたくないし、走りにも行きたいし」
 それにハタチ前には――と『今夜』決めていたことも迫っていて、過敏になっている。でもそこまでは言わない。
「あー、そうか。そんな時期か」
 そこで信じてくれて助かるような、幾分も察してくれないことがもどかしいような。恋愛感情に触れるようなことになるとするっとすり抜けていってしまう、その平然としたところも相変わらず。
 だから小鳥はふと呟いてしまう。
「あのさあ。翔兄て女の人から怒られること多くなかった?」
「え。な、なんだよ。きゅ、急に」
 思った通りに彼が狼狽えたので、ほんとに図星なんだなと確信する。
「サークル仲間の男子をみていて、そう思っただけ」
「……サークル仲間の男子と俺が、なに?」
 『何故比べる』と訝るその顔つきにも、小鳥はイラッとさせられる。
「毛布を取ってくるね。トランクを開けて」
 スープラ助手席のドアを開け、小鳥はもどかしいだけの車内を自分から飛び出した。
 冬の澄み切った空には満天の星。絶えずくるりと回り夜空と夜海を照らす灯台。まだ白い息が出るキリッとした夜の空気。小鳥は深呼吸をして苛立ちを抑える。
 こんな状態がイヤだから、今日こそは……と。彼と二人きりになることがあったら『告白』するのではなかったのか。
 だけど。なんだか。やっぱり翔兄は翔兄。あの人が好きなのに、彼と話しているとまったく遠く感じてしまうのは、子供の頃から変わらなかった。
 そう。やっぱり子供? 上司の娘? だからこんな夜中に二人きりでも、一緒に眠っても、平気な顔。
 それだけじゃない。『彼は女心なんて、きっとわからないんだろうな』と、ずっと思っていた。それとも、わかっていて知らぬふりなんて意地悪をしているのだろうか? だけど、もうこの二年でわかっていた。このお兄さんは前者。『女の気持ちは、よくわからない人』なのだと。良く言えば女に媚びない硬派だけど、そこだけが鈍感で、そして彼の最大のウィークポイントだと思った。
 今の小鳥なら『瞳子』の気持ちと苛立ちが、とても良く理解できる。こんなに女心を察してくれない彼氏を何年も待っていた彼女はすごいし、あそこでケジメをつけて別の道を女として選んだことも致し方ない決断だったのだと理解できた。
 スープラのトランクが開いて、いつも彼が準備している大きな毛布をふたつ、抱えようとした時。彼も運転席から降りてきた。
 彼は後部座席からスポーツ観戦でよく見かける長いベンチコートを手にしている。
「毛布だけだと寒いから、これも着たらいい」
 それを手にして小鳥の目の前に。毛布を抱えている小鳥にそっと背中から羽織らせてくれる。
「お兄ちゃんは。お兄ちゃんも薄着だよ」
 だけど彼は笑って、後部座席から同じコートを手にして小鳥に見せた。
「大丈夫。俺の分もある」
 俺の分もある。かえせば、『小鳥の分もちゃんと一緒に準備した』ということ。
「仕事用のティシャツをスポーツ用品店に探しに行った時に見つけたんだ。いいだろ。どこにドライブに行っても、肌寒かったらこれを羽織ればいいし。これもトランクの中に常備しておこう」
「……私の分も、買ってくれたの」
「……それが?」
 ドライブに行く時は『彼女』と一緒。だから何かを準備するなら、必ず『ふたつ分』。それが当たり前になっている? 男同士で走るだけなら、彼等は自分のものは自分で用意するだけ。だから、これは……。
「冷えるだろ。早く入れよ」
「う、うん」
 苛ついていたものが、こんな時に流れていってしまう。
 今回だけじゃない。この二年、こうして小鳥の苛立ちがマックスに達しても、『俺はドライブではない時でも、小鳥のことを、いちばんに思い浮かべている』と感じさせてくれる彼のささやかな想いに触れてしまうことが多かった。
 だから。スッとわだかまりがとけて流れ『私もお兄ちゃんのこと、いつだって考えている。好き、大好き』という穏やかな気持ちに落ち着いてしまう。
 車に入り、彼がエンジンを切る。ヒーターの暖かさが残っている中、新品でお揃いのベンチコートを二人ではおり、その上から毛布にくるまった。
「二時間後でいいな」
「うん」
「寒くなったら、我慢しないで言えよ」
「わかった」
 彼が携帯電話にアラームをセットする。
「おやすみ」
「おやすみ、お兄ちゃん」
 シートを倒し、それぞれ毛布にくるまり、そして背を向け合い横になる。
 彼の、一日の疲労を落とすかのような深い溜め息が聞こえる。彼が眠る前にいつもするひと息だった。それが聞こえると、数分後には彼の寝息が聞こえてくる。寝付きがいいほう。日中はめいっぱい集中して仕事をこなし、休む時はことっと電池が切れて寝てしまう。そんな切り替えが身体に上手く染みついているようだった。こうなるとなかなか目覚めないことを小鳥はもう知っていた。
 あーあ。さっき『私の分も準備してくれていたの。ありがとう。お兄ちゃん大好き』て、あの雰囲気の時に言えば良かった。何故言わなかったの。そういう決意で来たんじゃないのっ
 どうしても一歩進めない自分と、余程の決意で一人ここまで来たのに結局いつもと同じ状況に甘んじた自分を叱咤している。
 もう、一生。彼に歩み寄れないのではないかという絶望にも似た喪失感が襲ってくる。
 だめだ! 小鳥はぐるぐるにくるまっていた毛布をはね除け、一人起きあがる。
 静かな岬の真夜中。動いて見えるのは灯台の光だけ。運転席で横になって眠っている彼の背をみつめる。そして息を潜め、小鳥はそっと翔の顔を助手席から覗き込んだ。
 すっかり寝入っている彼の顔。ずっと見てきた横顔。近くにいるのに遠かった人。小鳥はやっと自らその頬に指先を伸ばす。
 そして、ついに。その指先の傍に、ちいさいキスを落とした。一瞬だけ。
 こんなことが出来るんだから、彼が目覚めたら、今度こそ、今夜の決意である『好き』が伝えられるはず、言えるはず。
 そう唱えながら、静かに助手席に戻った時だった。
「……あと、何日だ」
 彼の声がして小鳥はびっくり飛び上がりそうになった。運転席を見ると、彼も静かに毛布をのけて起きあがっている。
 嘘。起きていた? え、じゃあじゃあ、いまの私のキス、私がこっそりしたはずのキス!
 どうしてキスをしたか、彼はもうわかっている? 

 

 

 

Update/2012.9.18
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